南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

interrupt

たまには愚痴を書かせて欲しい。自分のブログなのだし。

様々なことが上手く行かない。多くの問題は自らが招いたことであると知りつつ、その情念が怨念となり思考を身体を縛る。アランは情念は単なる脳の血流によるものだと言っている。極論をすれば人間は決められた構造の中で決められた動作をしているのだとは分かっている。であれば、この切なさはどう説明すれば良いのだろう?

仕事のこと、恋愛、友情、生活・・これが自分の人生50年の結果であることを素直に認めることができない。どこかで掛け違えたボタンがある。でもそのボタンを掛け違えた時は既に彼方に過ぎ去ってしまっている。であれば、今与えられた状況を飲み込み、前に向かうために必要な措置を講じることがもっとも自身にとって効率的、効果的なことだと思う。もちろんその先に見据えるは自分の「幸せな未来」であるわけで。

ただ、問題を羅列し、個々の要素を分解した上で対策を考えた時、いくつかの無い物ねだり、物理的に解決不能なトラブルはいかんともし難い。ただ、それを自身の希死念慮と結びつけてはいけない。そこで思考を育ててもいけない。希死念慮は病気の産物で、自身の希望があるわけでは無いのだし、それが結論でも当然無い。トラブルは無機質に対処し、それを思考の隅に追いやった上で前を向き進むことを考えねば幸せなど勝ち取ることはできない。

では・・幸せとは何だ?僕が望む結果とは何だ?・・そう考えてはいけない。なぜならそれは上記にあることを含む無限ループに陥るからだ。人生の瞬間を捉え、一つ足を踏み出す。情念は単なる脳の活動と認識する。今の自分にとって必要なのはそういうことなのだ。

追記
現時点での気持ちとして、これ以上の問題が発生するのなら僕はもう全てを止めようと思う。もう色々と面倒臭い。