南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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【ネタバレ】もう一つの地球に贖罪はあるのか?(映画:アナザープラネット)

この映画、以前にレンタルで借りて印象に残っていたのだが、Blu-ray化されたものを量販店で見付け、購入し再視聴したものである。

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何がどう印象的だったか・・というと、空に浮かぶもう一つの地球という不思議な映像、全体の暗いトーン、そしてエンディングの解釈を巡り様々な想像をかき立てられる映画であったからだ。

17歳でMITに合格が決まったローダ。ある日、運転中のラジオで流れる「夜空に浮かぶ、人間が住める青い星が発見された」という言葉により、空を見上げて運転したあげく、家族連れの車に衝突し、夫以外の家族の命を絶つという人身事故を起こしてしまう。そして刑期を終えた4年後。全てに無気力になったローダは、たった一人生き残った夫に謝罪をするため、被害者宅を訪れたが謝罪の言葉を口に出来ず、「無料の掃除サービスです」と偽り、癒やそうとした夫の心にいつしか引き込まれていく。青い星はもう一つの地球であることが確認され、そこにはもう一人の自分がいるらしいことが分かる。彼女は現状の自分から逃れるため、その宇宙飛行士の選抜試験に応募するが・・。

いかにもSF的な「もう一つの地球」。その星と交信するNASA職員の様子を見て、そこにはもう一人の自分がいるらしいことを知る・・とここまで書くとどっぷりとSF的な感じがするが、この映画はその部分に焦点が当たっていない。テーマはあくまで自分の不注意で人を死なせてしまったことへの「贖罪」であると思う。この手のテーマの映画はとても多いが、そこにパラレルワールドとしての「もう一つの地球」を持ってきたところが斬新であり、その部分をSFと捉えられるのかも知れないが、描写的にもSF的なものはほとんどない。そこを期待すると肩すかしを食らう映画だろう。

 

だがこの映画の魅力はそこにはない。小さな不注意から大きな罪を背負うローダーの心の苦悩と犯した罪への贖罪が主となる物語だ。服役から自宅に戻り、屋根裏に最小限の荷物で日々暮らすローダーの様子にある映像としての「間」が、彼女の罪の意識と孤独をとても巧く表現している。

彼女は贖罪のために、家族を失ってしまったジョンのために最初は謝罪に、そしてそれを口にできないままに清掃婦として家に頻繁に通い、徐々に心を通じ合わせていく。しかし、それは彼女にとっての贖罪にはならない。いくらジョンの心を明るくしていっても、自分の罪が消えるわけでもなく、むしろ罪悪感は徐々に膨らんでいく。その心の苦悩が非常によく表現できている。全体的に暗い映像のトーン、彼女のシンプルだが幸せを感じられない行動がそれだ。

 

そして彼女はそんな世界から逃れるため、「もう一つの地球」に行くという行動を取る。罪の意識と現世から逃れたいがための脱出。そして、その気持ちを応募動機に書いたことでNASAの職員の目に留まり、彼女はその宇宙飛行士として選抜される。だが、それでもジョンへの罪の意識はやはり消えるわけではない。ついに彼女は自分が起こした罪をジョンに打ち明ける。ジョンにとっては青天の霹靂であろう。彼には当然彼女を許すことができない。当たり前だろう。妻と子供、そして妻のお腹にいた子供まで「殺された」のだから。彼女はその罪の重さに悩み、ある一つの考えにいたる。そう、「もう一つの地球にはジョンの家族が生きているのではないか?という思いつき。そうして彼女は宇宙飛行士のチケットをジョンに譲ることで自身の贖罪をしようとした。

 

ジョンが「もう一つの地球」に行き、しばらくしたある日、彼女は自宅で奇妙な人に出会う。そこにはもう一人の自分が立っていた・・。

 

映画のストーリーはとてもシンプルであり、全体のトーンが統一された良質なサスペンスだと思う。問題は最後のシーンをどう捉えるか?だろう。ここは観る者に委ねられている。

 

まず思いつくのは、突如現れた「もう一つの地球」は発見されたその自転で別の時間軸にあり、パラレルワールドとして別の世界が進行していると考えること。それは、NASAの交信の場面で担当者が同一人物であり、会話の「応」「答」があることから推察できる。であれば、自分のいる地球にもう一人の自分が降り立ったことは、ジョンの家族が事故には遭っていないことをひとつの可能性として推察することができる。17歳でMITへの進学を許された優秀な彼女である。宇宙飛行士に選抜されたとしても不思議はない。ただ、これだとジョンが向かった先には「もう一人のジョン」がいて、そのもう一人のジョンは家族と共に幸せな家庭生活を過ごしているかも知れない。そこに新たにこちらのジョンが行ってもその家庭に入り込めるハズはないだろう。少なくとも僕はそう考える。その場合のジョンの気持ちはどうだろうか?という意味から考えれば、これもやはり悲劇だと思える。

 

次ぎに思うことは、もう一つの地球でもやはり事故は起き、そして彼女はそこから脱出してくるというストーリーだ。だが、逃げた場所にも同じ「罪」は同様に転がっている。ひょっとしたら自分が二人になったことで、その意識は倍加するかも知れない。これもやっぱり悲劇からは逃げられていない。

 

そしてもう一つ。ちょっと気になるポイントとして、最後のシーンに現れるローダーの服装だ。そこまでの彼女とは明らかに違う明るい雰囲気を持った服装で現れる。ここから推測できることは、やはりもう一つの地球では事故は起きていないというひとつの表現では無いだろうか。そして同時に、彼女の服装から最初に書いた「もう一人のジョンとその家族」が、こちらの地球から行ったジョンの心を癒やしてくれていたという間接的な表現である可能性だ。つまり、一番目の想定から、ジョンがもう一つのジョン一家に受け入れられる、または、遠くから見つめるだけでジョンの心が癒やされたのだと言う可能性を示唆しているのではないか?との思いだ。これはある意味、贖罪としての意義がある程度全うできたとも言える。

 

自分で考えたのはここまで。もちろん、一番現実的だと思うのは最初に書いた可能性である。罪はどんな方法を使ってもその心から逃れることはできないのだという現実。それが僕自身は一番現実感がある。ミスであろうが、服役しようが、被害者の心のケアをしようが、その罪は消えることがないというのが僕の考え方だ。問題は、その罪とどう向き合って、どう背負って生きるかということである。その一つとして、もう一つの地球へのチケットをジョンに渡したことは間違いではないと思う。ただ、それで自分が全て許されると言うのは都合が良すぎると思う。

もちろん、罪を負ったものは幸せになってはいけない・・などと言うつもりはない。だが、その罪は一生消えないのだ。それを補う行動、考え方、方法はいくらでもあるだろうが、それはしっかりと背負っていかなければいけないことだと思う。人の命、家族の幸せを奪ったことはそれほどに重いと思う。できれば、そういう思いを込めて、上に書いた三つ目の可能性を信じたい。それが僕の本音でもある。

 

割と無名であるし、ドカドカのSFを期待した人には残念な作品かも知れない。まあそれは、多くの作品がそうであるように、商業的に作り出された予告編から想像できてしまうことでもある。ただ僕は、こういった個々の人が背負うものに対し、辛くとも向き合う姿勢は大切なことだと思う。こういうエンディングは賛否両論があるが、個人的にはこのエンディングは映画として秀逸だと思うし、もちろんそれにいたるまで過程の描き方、役者の演技も素晴らしいと思う。たまにはこういう映画もいかが?と、映画に対してアレコレと考えることが好きな人に観て貰いたい作品である。

 

追記

どうして洋題の「アナザーアース」のままではなく、邦題は「アナザープラネット」なのかなぁ・・。そのままで良い気もするんだが、某かの意図がある・・と言うのは考えすぎかな?