南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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【ネタばれあり】映画:64-ロクヨン

 ええと、お約束通りというか、先日、小説を読んだ後に映画も観てみた。

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 正直、あまり期待していなかった。小説のできが良くても映画化された作品が良いとは限らない。むしろ時間の「限られた尺」に縛られてしまい、特にこの「64-ロクヨン」のような量的にも質的にも高い作品を映画化してもあまり良いものはできない・・と言う思いは、過去の様々な作品による刷り込みもあるだろう。

これは単に映画が悪いということではなく、小説の世界感は個人の脳内に展開させられる壮大な想像世界であることも要素のひとつだとは思う。それでもなお、描くポイントを抑えれば良い作品はたくさんあるだろうと思う
そもそも海外の作品には元となる「本」があっても良い作品はたくさんあるのだから。


で、小説が良かったので映画版の「64-ロクヨン」も観てみることにしたのであった。
感想を端的に言うと、「そこまでやる必要ある?」だ。既に小説版の感想は書いているわけだけれど、もちろん映画版はそのままストーリーをなぞっているわけではない。ハッキリと書けば、エンディングが違う。前半部分は小説の世界をドラマにしたらこんな感じ・・的に言って、すごく良くできた作品だと思う。永瀬正敏演じる「翔子ちゃん誘拐事件」、別名「64(ロクヨン)」の被害者の父親であるその臨場感が、僕自身が小説を読んで頭に描いた被害者の父親像を上回っていた。子を失った親の人生という想像を絶した世界。それでもなお、小説を読んだ者にしか分からないのだが、細部に手の届いた所作。そして佐藤浩市を中心としたベテランでチカラのある俳優たちの演技に見事な「ロクヨンの世界」が出来ていた。


ところがそれが後編になると途端に様相が変わってくる。前編では小説でもメインであった、警務部広報室と記者クラブとの激しいやりとり、そして刑事部と警務部という警察組織内部での摩擦や人事などの軋轢について書かれている。ロクヨンを軸にこの物語を肉厚にしているのがこの小説の面白いところだと感じるし、横山秀夫さんの違った視点での警察の描き方だと思う。それが後編になるとロクヨンを軸に、対犯人の追走劇になってしまい、小説とはまったくテイストが変わる。
もちろん、映画は映画、小説ではない。それは別に構わないだろう。個人的に一番嫌な気分になったのは、ロクヨンの犯人である目崎の子供に、父親が警察に連行させられる姿を見せたことだ。そこまでする必要があったのだろうか?刺激的な場面ではあるだろう。しかし、あの利発さが見える幼い子供に、父親が連行される姿はどういうキズを残すのだろう?と考える。もちろん、目崎が犯人だと分かればそれは子供の耳にもすぐに伝わるだろう。彼女の生活が悪い意味で一変することも容易に想像できる。だが、犯罪者であっても父親が連行される姿を見せるのはどうだろう?意図はしていなかったのかも知れないが、そこまで追い込んだ三上の行動は「子を喪失した親」としてどうなんだろう?と思う。


そんなこともあって、前編は食い入るように観て、後編になると普通の犯罪ドラマっぽくなり中だるみ、トリッキーさは残るものの、最終的に嫌なものを見せられた気分になった。映画全体の感想としてはこれが僕の感想だ。

だが、この映画、小説の活字では表しきれなかった部分を、映像でしか表すことのできない多くのポイントを有している。そういう意味で、小説を読んだ人には一見の価値があると思う。雨宮が仏前の前でそっと電話帳を机の下にズラす場面、犯人の「声」を聞くために、ひたすら14年間押し続けた公衆電話のすり切れたボタン。そして、演技陣が素晴らしい。佐藤浩市や永瀬正敏はとても良かった。しかし、もっと良かったのはロクヨンの犯人、目崎役の緒形直人だろう。以前はハンサムだけの若手俳優程度にしか思っていなかったが、この汚れ役で鬼気迫る演技を魅せてくれた。反対に、良かったのに映画の構成が変わったせいで浮いてしまった記者クラブの秋川こと瑛太と、二渡役の仲村トオルが少し残念ではあったが、どの俳優もこの映画にとって欠かせないと思わせる演技が光っていたと感じた。

 

個人的に、映画としての評価は標準以上ではあるが「傑作」とはいかない。小説で書かれていた捜一の課長である松岡役の三浦友和をトイレで待つようなシーンなど、解説が無いと分からないシーンもあり「小説を読んでから観る」のが個人的にお勧めである。

しかし、こうやって観ると日本映画もなかなかだよなぁ・・とは感じた。最後のシーンを除く・・を条件付ければ、お勧めの映画だと思う。