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南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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【ネタばれあり】親が子を思う気持ち(超濃密な警察小説:64)

読書

何故、今になって「64」か?もちろん、映画が作られたからなのだけれど、横山秀夫さんの「半落ち」を読んだ時に、何となく納得感が無かったことと、このボリュームに圧倒されて読んでいなかった。世間の評価は高かったものの、警察小説ということで見送った経緯もある。が、今回、Kindle版もあるということでやっと読む気になって読んでみた。

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わずか7日間しかなかった昭和64年、ひとつの少女誘拐事件「64」が発生し、それは少女の死と身代金を奪われるという残酷、且つ、警察の汚点となる結末を残した。当時、捜査官であった三上は、14年後に警務部広報官に任命され、刑事部の一線から外されるという屈辱を受ける。そんな折り、三上の娘である「あゆみ」が醜形恐怖症となり家を出てしまう。あゆみの安否と、元婦警である妻の美那子が娘からの連絡を待つことで引き籠もりになり、不安定な状態となってしまう。そんな状況の中、突然の警察庁長官の「64」絡みの視察が訪れる。折しも広報官として匿名問題でマスコミと対立関係にある三上に更なる試練が訪れる。警務部広報官としての三上、「64」に関わった刑事部時代の自分との軋轢に激しく揺さぶられる三上とその部下達。「64」は解決をみるのか?三上の広報官としての意地と刑事部への拘りはどうなるのか?

うーん、毎度、あらすじがイマイチ巧く説明できていなくて申し訳ない。まあ、その辺はネットに色々とあるのでそちらを参考にしてもらうと良いかも。(^_^;)

 

読み終わったところで真っ先に感じたのは、その物語の濃厚さである。伏線を巧く回収したとか、トリッキーだとか言う類いのものではない。人間の感情、警察内組織同士の軋轢、そしてメインとなる警務部広報担当とマスコミとの強烈な応酬が、その「濃厚さ」を構築していると感じた。

娘である「あゆみ」が家出をし、それを盾に首根っこを警察に押さえられている三上。その中で、最初のマスコミへの事故の匿名報道による広報との一手も引かない戦いからはじまり、後半においてはたたみ込むように訪れる様々な事態。捜一課長の首をキャリアにすげ替え、東京の思惑に重ねるための「64」への突然の警察庁長官の視察、それに関わる同期であり高校の同級生である二渡の暗躍を思わせる様々な行動、刑事部をひっくり返すような「64」の真実。そして長官視察の前日に起きる「64」を模倣した誘拐と思われる事件の発生。この誘拐事件が、もう頭の中であれやこれやと考える隙を与えず、一刻の猶予も許さない中、広報官としてあがき続ける三上に自分自身を重ね、ひどく息苦しい。圧倒的な展開の複雑さと濃厚さ、ここまで積み上げてきた物語の設定、まったく見事な緊迫感の演出である。とりあえず一回読んだところ、内容が気になってしまって再び途中から読み返してみたが、その濃厚さに微塵も揺らぎは無かった。三上自身が感じるプレッシャーが自分の心を侵食するように錯覚してしまう。

巧いと思ったのは、警察小説として警務部広報担当と元捜一として64を追い、さらに捜二にも在籍していた三上が広報官として刑事部に挟まれる葛藤。自分は刑事なのか?警務部なのか?そして広報官としてマスコミと対峙する描写の迫力だ。この辺は、僕がこう書いても伝えることはできないだろう。そう、本作を読むしかない。しかし、実際の現場もこうなのだろうか?と考える。ひょっとしたら、そのヒントが映画にあるのかも知れない・・なんとなくそう思った。もし、実際の現場がこの小説と同じなら・・僕は多分、警察にもマスコミにも幻滅するのだと思う。特ダネを抜くことしか考えないマスコミたち、保身のためには何でもする刑事。映画ではよくあるシチュエーションだが、現実がこんな人たちばかりだったらたまらない。もちろん、刑事もヤマによっては清濁飲み合わせるような場面はあるのだと思う。しかし、それも最終的には国民の安全を守る正義であって欲しいし、マスコミは経済活動に縛られず、公平な立場と視点であって欲しいと思うだろう。きっとそんなことは綺麗事なんだろうが・・。

 

こうやってエントリーを書きつつ、「では、この小説は何を僕に伝えたのだろう?」と考える。真っ先に思いついたのは「親が子を思う愛情」、または「執着」だろうか。娘を殺害された雨宮、そしてその事件の犯人と確信している目崎に対して同様の犯行をなぞったカタチでの「子供の喪失」。そして三上夫婦も違うカタチで子供を喪失した状態にある。それぞれが異なる背景と結果、またはその最中にあるとしても根にあるものは同じだと思う。片方は相手に同じ思いをさせるために気の遠くなるような14年の歳月を掛けて相手を見定め、行動をした。もう片方は自ら出ていった娘の思いによりそうために娘の居場所としての「誰か」を作り上げた。だがそこにあるのは同じ「親が子を思うこと」であるような気がする。目崎が最後に便せんを食べてしまった内容は、本文中では「訛りのない、やや掠れた声の目崎正人へ」と三上が想像するシーンがあるが、僕には「同じように子を失う気持ちが分かったか?」と書かれていたような気がする。まあ、もちろん僕自身の考え方であって、小説の内容によるものではないのだが。

 

映画は予告編しか観ていないのだけれど、この小説を読む前に観てしまったので、広報官で主人公の三上が佐藤浩市とダブる。しかし小説の中の三上は無骨な面相のようで、父親に似た娘が醜形恐怖症となるぐらいの強面なのだ。ここで頭の中にある「三上像」が揺らぐ。小説の中の三上と映画の中の三上の雰囲気の違いである。この時に、真っ新の状態で小説を読むべきだったと今更ながらに思った。ただ、だから映画が駄作だと決めつけてはいけないだろう。映画はもう少し経ったら観てみようと思う。そのくらい、この小説は圧倒的であった。評判通りの作品だと感じた。

 

追記

こういった読み応えのある作品に出会った時、いつも思うことがある。「未読の人が羨ましい。」である。なぜか?だって、これからこの作品を楽しむ幸せが待っているのだから・・なーんてね。