南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

艶やかな桜に君たちのことを想う

上京して27年。毎年この季節には新宿御苑に桜を観に行くことにしている。足が不自由になり、精神面でも病気を抱えている身であることから、あまり人出の多いところは行くことができないのだが、この日だけは別だ。毎年、桜を観て、そしてその一年を振り返ると共に来年までの一年をより良きものにしようと考える。

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ただ、今年の花見はちょっと自分自身での意味合いが違っていて、それは一年とちょっと前、立て続けに友人二人を亡くしたことがある。彼らは今年だけではなく、昨年の桜も観ることは無かったのだな・・とフト気が付き、なにか複雑というよりは悲しい気分になってしまった。

小説や映画などで「次ぎの桜が咲くまでこの命があるのだろうか・・」なんてセリフがあるが、僕自身もそういう気持ちで毎年の花見に来ている。が、この気持ちが実感を伴い、過去から未来に続く人生の意味や目標が明確なカタチとして捉える気持ちを持ったのは初めてのことだ。人生の時間はもちろん有限であるのだが、明日は必ず来るのだと安穏と信じ、怠惰な毎日ではなかったか?と自分に問うてみた。今年の花見は、良くも悪くもこの27年間で一番の重みのあるものとなった。

僕が新宿御苑が好きなのは、入場料があり、整備もされていること、そして都心にこんな場所があるのか!と思える、季節毎に顔を変える園内の美しさにある。そして、この桜の時期はまた格別だ。ただ、今年は昨日が雨天だったこともあり、かなりの人出。それぞれがマナーやルールをおおよそ守ってはいるが、やはりその人の多さでかなり疲れてしまい、今、このエントリーを書いている時でさえ、昨日の疲れが残っていることを感じる。

桜は日本人にとっては特別な花だ。春の花として日本の文化的な側面も持っていることは当然だが、短い期間に一気に咲き乱れる美しさと特異さ、そして散り際の美しくもあるが切なさを伴う「あはれ」と形容できるその景観が、単なる花というだけではなく、個々の人生観の映し鏡のようになっているように思える。

友人たちのこともあるのだが、「来年も観られるのだろうか・・」と、弱気になったわけではなく、命の儚さを思う言葉が、つい口から出た。今回はちょっと特別な一日であったように思う。でもまあ、たまにはそういう気分も良いのかな・・と、今は思うことにした。皆さんはどんな花見を過ごしたのだろうか。