南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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【ネタバレ】「怒り」よりも「悲しみ」しか感じなかった(映画:怒り)

見終わって最初に思ったのはタイトル通りで、「怒り」よりは「悲しみ」を感じたこと、そして、原作を読んでみないことには、この映画の辿り付くべきところが何なのか理解できないのだろうと感じたことだ。 

 物語は東京で起きた猟奇殺人から始まる。風呂場で惨殺された夫婦の遺体。現場に残されたぶつけるような「怒」の文字。犯人の「怒り」はなんだったのか?それと同時に東京、千葉、沖縄で犯人と思しき三人の男とそれを取り巻く家族や恋人の人間関係。それぞれが持つ、それぞれの怒りはどこに向かうのか?

まず、俳優陣が粒ぞろい。渡辺謙、妻夫木聡、池脇千鶴、松山ケンイチなどに加え、若手の広瀬すず、宮崎あおい、綾野剛、森山未來などなど実力派。実を言うと前知識なし、家人が行きたいとのことで何を観るのかも知らされずに映画館に脚を運んだのであった。

 

さて、タイトルの通りなのだが、僕には「怒り」はほとんど見ることができなかった。僕の審美眼や認識力が悪いのか?とも思う。だが、僕が感じたのは、ただただ「悲しみ」の連なりだった。米兵にレイプされる泉の恐怖と悲しみ、それを助けられずうずくまることしかできなかった辰哉の悲しみ、ゲイであることから孤独な未来を悲観しつつも、新しい恋人である直人との関係を続けるしかない優馬の悲しみ、歌舞伎町から父親に連れ戻され、どこからやってきたのか分からない田代と名乗る男との新しい生活を始める愛子と父親の悲しみ、そしてその田代が抱える理由の見えない悲しみ・・これを果たして「怒り」と置き換えても良いものか?と映画を観つつ考えていた。

 

八王子での殺人事件の主犯とされ、行方が分からなかった山神。東京の直人、千葉の田代、沖縄の田中らがもつそれぞれの特徴が、三者に似ており、誰が犯人なのか?に目が向けられる。原作も前知識も無かったので、最初は、これは時系列が違う3つの物語では?と思ったりもしたのだが、それは山神の特徴がテレビで同時に報道された時点で消えた。そして、この時点で不明な犯人の動機。ゲイであり優馬との未来を考える直人は犯人に思えない。それは千葉の田代にも言える。この時点で、山神は田中だと感じていた。そして辰哉の前で激高する田中。あぁ、キマリだな・・と思った。それは「怒」の文字が示す、ある種の病的な癇癪に似たものを感じるからだ。

 

そして、そこまでのミスリードを誘う流れが帰って不自然な駒の配置になった気がする。どうにも融合しない3つの物語。何となく、リーアム・ニーソン主演の「サード・パーソン」に似たようなテイストを感じるが、それぞれの家族や恋人に対するリアリティに不満が残る。怖いからと言って、レイプされる好きな女の子を放っておけるだろうか?二人でお墓に入るか?なんて会話ができるようなステキなカップルが、病気のことを隠しておけるだろうか?心配させないことの方向性が違うと思う。それは僕の感じ方のせいかも知れないが、僕は自分が抱える多くの病気に対する生命の不安については、キチンと家人に説明してある。「俺が突然死んでも悲しむ必要はない。それは俺が一番悲しいことだし、そんなことは望んでない。今のままで充分幸せだと。」愛していれば、それが当たり前・・というか、必要なことではないだろうか?

そういったミスリードのために不自然に配置した駒のせいで、鑑賞後の後味が酷く悪い。日本の映画で、日本の俳優で、日本語で作られたのに、日本人の僕自身が映画に入っていくことができない。

 

ただ、悪い物語だとは思っていない。おそらく説明不足か僕の認識力の問題なのだろうと。なので、これから小説版を読んでみようと思う。きっと背景も含めて、もっと緻密な人間像、そして個々が抱える問題や見据える未来が分かってくるような気がする。そして「怒り」も。

救いなのは、愛子の元に田代が帰ってきたことだろうか。暫くはこれだけを胸に留め、余韻を楽しんでいたい。今はあまり色々と考えたくない・・そんな気分だ。