南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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オリンピックは誰のもの?

ここのところオリンピックで国歌を歌うのがどうのとニュースを賑わしている。ちょっと前では招致に対する様々な憶測やら疑義やら疑惑やら、その前にはエンブレムの問題などもあった。

もちろん、オリンピックに出てる選手は「国を代表する」意味もあるし、そのために多くのコストを捻出され、それに乗っかった企業「など」の様々な思惑もある。僕がその全容を把握しているとは思いがたいが、個人として思うことはある。それはオリンピックに限らず、自分がやってきたモータースポーツへの思い入れに近い。

 

MotoGPに出られるほどの選手になりたかったか?もちろん、それは否定しない。当時だったらGP500になるわけだけれど、基本的に誰かのために走ったわけじゃない。自分のために走っている。「誰よりも速く」。大好きなコミックのフレーズじゃないが、当時はそう思って練習したし、自分でお金もかけたし、レースでも命をかける思いでタイムを削っていた。残念ながらそこまでにいたらなかったのは、才能なのか、それとも熱意なのか、その辺は定かではないが、今でも思っていることは同じだ。

レースは観るもんじゃない。走るもんだ。

である。つまり、レースは誰のものでもない。自分のものだ。

 

さて、オリンピックに出場する選手はどうなんだろうか?と思う。大きく違うのは「国家の威信をかけて」とかだろうと思う。しかし、選手も同じなんだろうか?と。スポンサー企業やら国からの税金など様々な他者の支援を受けている時点で違うのだろうとは頭では分かっているが、やっぱり彼等は自分のために努力を続け、参加しているんじゃないのかなぁ・・と思うのである。

つまり後からそれをビジネスと国家の威信を付け加えられて、コトを大きくされて、そういう意味から外部からの横やりが色々と入ってくるのは当然のこととして理解できるのだけれど、参加資格を得るために頑張ったのはその選手であって、その選手の活躍は見たいと思う人がいるのは当然のことである。それは僕がMotoGPを見ているのと同じであるし、多くが野球の応援をしていたり、サッカーやバレーやラグビーの応援をするのも同じである。その姿を見て自身も同じような選手になりたいと思って練習したりするのは、やっぱりそれぞれの勝手や個人の夢であって、それぞれの意義でもあるのだと思う。それが今の閉塞した社会に対する、大勢の人への励みにもなるのだとも思う。

 

だけれど、そうやって色々と考えていくと、僕にはオリンピックはビジネスや政治の場としか見えなくなってきてしまって、正直、あまり楽しめない。もちろん、競技場のための設備コストは必要になるわけで、そのためのスポンサーやら国の支援を否定するつもりはないんだけれど、それを上から目線で、国民のヒーローだし国を代表しているから説教垂れられたとしても当たり前だろ?と言われてしまうと激しく違和感を感じるのである。「この場を用意して『やった』」「お前を選んで『やった』」。確かに実際、そうやって選手は選ばれて競技をして、檜舞台でヒーローになれるのだろうとは思う。それは分かっている。それでもなお、僕の違和感は消えない。

 

もちろん、それはあくまで僕の「感じ方」であるわけで、「不謹慎な」と言われれば「はぁ、ごめんなさい。」くらいのセリフは出てくるわけだけれど、それでも自分が持った違和感はそのまま持ち続けている。そもそもオリンピックって誰のものなのかなぁ・・そんな感じだ。もちろんオリンピックを開催することに疑義を持っているわけじゃない。なにせ、自分が頑張ったことへの晴れ舞台なのであって、その舞台を用意してくれている人たちがいることも事実なのだから。そこにケチを付けるのもやっぱりなんか違う気がするわけだ。

 

まあ、正直なところ、僕はそもそもオリンピックはもう長らく見てない。元気な人が元気に走るところを見ると、自分の満足に動かない足に嫌気が差すからだ。見ないことは僕の自由でしょ?それに僕は走りも泳ぎもしないし、ボールを追うことも無いのだから。やっているのはその競技に参加している人たちなんだからさ。こんなこと言うのも「不謹慎」なのかなぁ?