南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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どうにも咀嚼できない(映画:レナードの朝)

実は今日は「スノーホワイト 氷の王国」を観てきたのだが、「あれ?スノーホワイト出ないの?タイトル、関係なくない?(後で調べたら、洋題にはどこにも「SnowWhite」とは書いてない)」とか、あまり感想らしい感想がない。正直に書こう。映画ファンとしてはあるまじきことに、途中で少しウトウトしてしまった。まあ、シャーリーズ・セロンの毒々しい怖さが大好きなので、その点は充分満足なのだが。

 

ということで、本当はこのエントリーに書こうと思ったのだけれど、どうにもこうにも自分の中で書きようがなく。結局、家に戻ってから観た「レナードの朝」について書いてみよう。実は初見なのだ。

嗜眠性脳炎にによって30年間の昏睡状態であるレナード。新たにその病院に赴任してきた医師、セイヤーにより昏睡状態であるはずの患者に、特定の反応があること発見する。そしてセイヤーは脳の状態が回復可能と予測し、新薬の投与を試験的に与えることにした。そしてレナードは奇跡的に目覚めるが・・。

そもそも「嗜眠性脳炎」というものを良く知らないのだが、所謂「脳炎」であることは分かるし、患者の状態を見ればアルツハイマーに似たような症状だろうか?と思える。調べてみると、第一次大戦後に一時的に流行した病気のようだ。

kotobank.jp

 

タイトルにも書いた通りなのだが・・あくまで僕がこの映画から受け取ったものはなにか?といういつもの視点で書いてみたい。

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まず、「俳優は一流」、「ドキュメンタリーとして秀作」、「映画として駄作・・とまでは言わないがイマイチ」である。

 

この映画に参加した俳優は一流中の一流。その演技力は見事で、ロバート・デ・ニーロのこんな姿が観られるとは思わなかった。この映画の中で見せられる「リアリティ」は、そもそも「リアル」を詳しくは知らないので分からないのだが、その苦悩、回復した時の希望の表現は見事だと思う。思わずウルっとする。ロビン・ウィリアムズについてもいつもの破天荒とも言える演技は息を潜め、医師としての穏やかな苦悩をシッカリと伝えていると思う。演技としてケチの付けようがないというか。

 

では、この映画から普通に感じることは何か?「世の中にはこんな人もいるのだ。命や人生はとても大切、ましてや自分の人生は如何に恵まれたことか!」というのは理解できる。でもそれは「映画」とはちょっと違っていて、どちらかと言うと「ドキュメンタリー」のそれに近い気がする。これが実話に基づいているという背景、そして一流の俳優によるリアリティを得たが故に余計にその「ドキュメンタリー感」が強くなってしまったように感じる。事実に即した部分において、現代では考えられない投薬状況、患者の奇跡的回復に感動はするだろう。しかしそれが一時的なものであった事実は、後塵のために先人の踏みしめた一歩である。であれば、僕はこれを「映画」として咀嚼するのは少し抵抗があるんだ。感動はするよ。色々な思いもある。だけど、「映画」だと言われるとちょっと違う。

 

それはいくつかの脚色にもある。

一つは、これも実話かも知れないが、新薬が高価であるが故に多くの患者に投与ができない。そんな実情の中で、レナードの奇跡を見たスタッフたちが寄付をしていくシーン。また、父親の看病のために訪れた女性とダンスをするシーン。レナードが病気と闘う姿に心を打たれたのだろう。しかし、これは映画の脚色として全体からすごく浮いて見える。感動のシーンを付け足したように見えてしまうのは、僕がヒネくれているせいも無いとは言わない。それでも、他のいくつかのシーンでも全体の調和が取れていないと感じるシーンがあると感じた。

 

事実を伝えること、感動を分かり易く伝えるという意味では良い映画なのだろう。だって、多くの人がそう感じているのは事実であって、僕が否定することじゃない。つまり、その点だけをあげても秀逸な映画だと言える。

だが、僕の中ではやっぱり冒頭に挙げたような評価なのだ。「映画」として、どうにもうまく咀嚼できない、消化不良のような気分でいる。この映画が大好きな人はたくさんいるだろう。だから、こんな文章を読んで気分を害される方もいるかも知れないが、それはご容赦いただきたい。あくまで「僕はこう感じた」に正直になりたい。

まあ、そういう意味ではもう一度観るとまた違う感想を抱くかもなぁ・・とも思う。もう少し時間をおいてまた観てみよう。

 

ということで、今日は2作品を観たが、今一つ気分が盛り上がらなかった。一日2作なので、テイストの違う映画を選んだのだが、初見ではなく、今まで観たものから探した方が良かったかな・・まあ、結果論である。