南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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人生には多くの想いがあり、それを経て人間は前に進むのである【ネタバレ】映画:海街diary

人気コミックの実写映画は大抵は酷評を受けるものである。それは、いくつか理由はあると思うが、大きくは、そもそも物語自体に思い入れが強いが故に、微妙にストーリーが変わっていたり、大切な場面が抜けていたり、キャラクターが自分の想像と違う場合だろう。つまり、「コミックとの乖離」だ。そもそも2時間程度の枠にどうやって長い物語を収めたら良いのか?どうしても削る場面が出てくるわけだし、そのためにストーリー全体の帳尻を合わせることが難しくなる。

また、キャラクターイメージが自分の思いと異なることは致し方が無い。そもそもそのイメージは自分自身が作り上げたもので、他者と違っていてもなんら不思議はない。

 

ということもあって、好きなコミックや小説の実写映画はあまり観ないことにしている。ほとんどがギャップに落胆することが大きいからだ。もちろん、コミックを知らないでその映画を単独で観ていたら評価・・というか感じ方は違ってくるだろう。今回はそういうことを踏まえつつも、僕自身が愛して止まない「海街diary」を観てみた。つまり、基本的にこの映画に関しては、ダメ出しは「無し」だ。

 

物語を語るのは今更な感じがする。両親の離婚によって3人姉妹が一つ屋根の中で暮らす。そこに、父親の訃報が届き、腹違いの妹ができる。そして彼女らは同居を始める・・と言った物語だ。僕がこの物語が好きな理由は先日のエントリーで書いた。

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さて、この映画版「海街diary」を見終わってみて感じたことは、「物語に対する制作者の愛情」である。自分自身が感動した色々な要素を詰め込みたかったのだろうなと思ったからだ。基本的には4姉妹を中心に、そのためにコミックには無かったストーリーを改編して追加したり。良いなと思っているシーンの中で、4姉妹が絡んでいる部分を、違うシーンの中に差し込んでみたり。だから、そのシーンはコミックとは前後してみたり、流れの中でのチグハグさを感じてしまう。しかしそれは、あくまでコミックのストーリーが頭の中に前提として構築されているからだと思う。

4人姉妹は分け隔て無く書かれている。だが、基本的には4人が同時に絡むシーンがメインだ。コミックでは、姉妹それぞれの物語と人間関係が交錯するシーンがたくさん盛り込んである。例えば、青空や月を見るシーンは、個々の姉妹の現状に沿ってそれぞれの想いがコミックにはある。しかし、映画ではそれは希薄で、コミックには無いすずの引っ越しの際の障子貼りや、海猫食堂に姉妹4人で出掛けたりするシーンに現れている。この辺、非常に苦労しているなと思う。

ちなみに4人姉妹は、長女の幸(さち)を綾瀬はるかさん、次女の佳乃を長澤まさみさん、三女の千佳を夏帆さん、そしてメインの広瀬すずには浅野すずさんがそれぞれ演じている。

 

逆に少し残念なのは、魅力的なキャラクターの何人かがバッサリと切り捨てられていることだろう。例えば、サッカーチームである「湘南オクトパス」のヒーローであり、作中で片足を失う裕也や、お調子者の将志、後にすずの恋人となる風太もコミックとはだいぶ違う色づけがされている。また、叔母の北川十和子とその息子の直人も、愛すべきとても印象的なキャラクターだがやはり4人姉妹中心の物語であること、そして時間の都合上なのかバッサリと切られている。それは仕方がないことだろう。風太なんかとても良い味を持っているのだが。

 

この作品にはステキな言葉がちりばめられているが、その中でもコミックでは十和子がすずの母親の財産分与の際の言葉として、「私は浅野さんの家族から夫と父親を奪ってしまった。その上、すずという『宝物』まで授かったから、これ以上もらうわけにはいかない。」というシーンがある。これはすずという存在にとってとても重い言葉なのだが、代わりに海猫食堂の女主人、二ノ宮さん(風吹ジュンさんが好演)が口にしている。ただ、そういったことが随所にあるのは、この作品が制作者に愛されているからだと思う。ストーリーを優先しつつ、できる限り大切なモノを拾い上げることに注力したからではないだろうか。僕はそう思っている。

 

コミックには印象的な言葉やシーン、回想がたくさんある。上記の十和子の言葉もそうだが、他にもたくさんある。

裕也が片足を失いながらも自らの努力で復活を目指していたことに気付いた風太と、気が付かなかったすずと監督であるヤスのそれぞれの想い。長女、幸が不倫で医師である恋人との別れのシーン。重たいものをたくさん背負った上での恋だった。それを振り返るシーンでの幸の想い。「できないナース」である幸の同僚のアライが、死者に対する思いやり溢れるエンゼンル・ケアや患者の気持ちを思い計ることができる能力に長けていることに気付くシーン、幸が昔の先輩との会話で「人は信じたいものだけを信じて、見たいものだけを見るのよ」のくだり。

個人的に極め付けなのは、北川直人が大学の論文のために訪れた個人経営での経営者である「アトリエ糸切屋」の桐谷糸が、直人に掛ける詩人の引用の言葉「立ち上がってたたみなさい。君の悲嘆の地図を。」心にドカンと来た。

「人生には様々なことがある。良いことばかりではない。過去に起きた悲しいできことを捨て去り(というのはちょっと違うと思う。糧にしろと僕は取った)、立ち上がり、前を向いて歩きない。」という意味だ。誰だって過去に悲しい思いをしているだろう。実は、このエントリー、深夜に書いている。眠れないから。何故かというと、つい先ほど友人の自死の連絡を受けた。今月に入って2回目だ。まだ詳細は分からないが、彼等の事情は事情としてあるとしても、せめて僕に何かできたら、できなくても彼等が過去を捨て去り、前を向いて歩いてくれたら・・と思わずにはいられない。今更どうしようもないのだが・・。

 

全体を通してみると、やはり少し詰め込み過ぎちゃったかな・・という思いが残る。何度も書くが、印象深きキャラクターが削られていることだろうか。風太や十和子、直人については書いたが、藤井朋章は出ているがあんな軽いキャラクターではない。原作の吉田秋生氏の「ラヴァーズ・キス」にも登場しているが(吉田秋生氏の作品には、こういったキャラクターのクロスオーバが多い)、映画では一見チャラついて見えるが、実は筋が一本通った、聡明で魅力ある男性である。これもまあ、映画としては捨ててるキャラだろうと感じた。それと喫茶店「山猫亭」の主人、福田をリリー・フランキー氏(同い年!)が演じているが、原作とはかなり違ったイメージがある。原作の福田は、年相応以上の経験をし、その多くを人としての「厚み」を伴った人物である。言葉のひとつひとつの重みには、僕の年齢でも唸らされることが非常に多い。ここもやはり「4人姉妹に重点を置いた」ためのひとつの流れなんだろうと思う。

 

それから、ストーリーとはあまり関係ないのだが、姉妹の大叔母役として樹木希林さんがご出演されている。なんというか・・その存在感自体が圧巻だ。これはもう随分前からそうなのだが、画面に出てくるだけで全ての役者がチープに見えてしまう。大女優とはこんなに凄いものかと思える人である。

 

もちろん、コミックを愛している人には物足りないだろう。そもそもキャラクターの心の言葉はコミックで書けても、映画では役者が演じて伝えなければならないことと、それを観客が受け取る能力が必要となる。難しくて当然だ。それを考えた上でも、好きなシーンが時間経過を伴い、一つの絵として展開されることはやはり嬉しいと感じる。酷評するばかりではなく、こういった見方もあるのだな・・そんなことを感じさせる映画だった。

全ての人におすすめ・・とは言えない。でも、僕はこの映画、ひいてはこの物語が大好きだ。