南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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その愛はホンモノか?【ネタバレ】映画:あの日のように抱きしめて

映画好きの友人に勧められて「あの日のように抱きしめて」をレンタルしてみた。ネットで大筋を読んで(もちろんネタバレは読んでいない)、苦手な映画だと感じていたからだ。だが、友人の見立ては間違ったことはない。ある意味感性が似ていると思うのは友人に対して失礼かもと思いつつ、この映画を観た。

 

愛の映画である。愛の映画と言えば「甘い関係」を表すことが多いが、この映画は違う。それはひとつは現題の「Phoenix」にもあるが、圧倒的なのは劇中を流れる「Speak Low」というJazzナンバーが示唆するものだろう。 

 

まずはいつものように物語の概略を。

終戦直後のドイツ。ナチスのユダヤ人強制収容所から生還したネリーは、顔に大怪我を負っていた。彼女は親友レネの助けを借り、顔の手術をし、新しい人生を再構築するために歩き始める。しかし彼女は、顔は別人となってしまったが、生き別れた夫ジョニーへの愛を取り戻すために街を彷徨い、そして彼に出会う。しかし、彼は彼女が妻のネリーだと気が付かない。そして彼女の財産を取り戻そうとするために、彼女に本人である「ネリーのふりをしろ」と言うジョニー。彼は本当に妻であるネリーを愛していたのか?

映画を観ながら思うのは、視点はどこに集中するかがポイントでもある。多くの人は、やはり「何故気が付かないんだ?」という点ではないだろうか?そしてハッピーエンドを夢みる。それはタイトルが「Phoenix」であることからも先入観に似た結末への希望的予想となるだろう。邦題も同様だ。「あの日のように抱きしめて」は、夫婦の愛が愛を取り戻すことに期待を抱かせる。いつも思うが、こういった邦題はどうにかならないものだろうか?映画館に客を呼ぶ以上、ある程度多くの層にインパクトを与える必要はるのは仕方がないが。

 

さて、映画に戻る。

酒場でやっとジョニーを見付けたネリーはその強い想いに引きずられるように彼の前に姿を出す。彼にも彼女を見た時のインスピレーションが働いたのだろう。「妻に似た雰囲気がある。」と。彼は既に妻は死んだものと信じている。そして彼は「雰囲気の似た別の女性」である彼女に、妻のフリをして軍に没収された財産を取り戻すことを提案する。

 

しかし、いくつかの彼の行動がネリーを迷わせる。頑なに自分を「ネリー」だと言う可能性を否定するジョニー。その点は逆に考えれば、「愛した者を失った悲しみの反動」だとも取れる。観る者はその点に揺れるだろう。この行動は愛があった故か?それとも愛は無く、財産目当てだけなのか?と。そしてネリーは、「夫は本当に私を愛していたのか?」と。

だが、悲しいことにネリーが夫を愛していることは事実だ。最初の整形手術の過程で「元にもどして」と言ったこともそうだろうし、様々な状況においても彼女は夫の側にいられる喜びを何よりも優先する。それは強制収容所からの脱出を手助けしてくれた上に、その後の未来の生活をも考えてくれた友人の忠告をも無視して。彼女はここに至るまでに相当な辛い思いをしてきた筈だ。それを超えてさえ、夫へのひたむきな感情には勝つことができない。彼女は自身が持つ疑念が徐々に膨らみつつも強引にそれを否定し続ける。「夫は私を愛していた」という脅迫に似た感情に囚われて。

 

物語が後半に差し掛かる頃、徐々に物語りのぼやけていた部分、「夫は妻を愛していたか?」が鮮明になってくる。妻をナチスから救うためにボートハウスに身を隠させたが、それが発覚して捕らえられた。それは何故か?夫の密告?そして、彼が戦時中に妻の収監と同時に離婚届けを出していた事実をネリーに伝え、自らの死を賭して親友レネの最後の告発。

映像として、ジョニーらしき男が書類を盗みだそうとしたシーンが差し込まれていたことを思い出す。あれは、離婚手続きの書類を盗み出すためか・・財産を取り戻すために・・とやっとそこで思い至る。

 

そしてネリーはジョニーの計画通り、元の友人たちに会う。そこに発せられる強烈な違和感。おそらく、彼女の顔はそれほど元の顔には似ていないのだろう。なのに疑う素振りも見せない友人たち。そしてそこに不自然な空気が流れる。そしてネリーはとうとう決断するのだ。

ジョニーの伴奏で「Speak Low」を歌う。そして彼女がボソボソと歌い始める。最初のぎこちなさは彼女の心の揺れなのか?そして彼女は徐々に力強く歌い始める。そして、その歌声に、更に目の前の女性の腕にある収容所で収監されていた入れ墨をジョニーが見付け、ピアノが止まる。気が付いたのだ。彼女が本当の妻ネリーであることを。そして自分の愚かな奸計が見抜かれたことを。

 

「Speak Low」を歌う彼女の姿、それがジョニーに再会して今までの自分、そしてそこへの迷い、そして決断と徐々に流れていくのが目に見えるようだ。素晴らしいネリーを演じるニーナ・ホスの演技が演技であることを忘れさせるほどの情感がある。心を持って行かれる。ここまでの悩み、自分の愚かな行動、そしてそれに対する真実への確信と決別。「Speak Low」が切ない。(歌詞は著作権の問題もあるので書かないが、是非調べてみて欲しい)待ち焦がれた彼との再会、そしてそれはいつか終焉を迎えることを伝え、自分はずっと待っていたのだという気持ちを伝え、ネリーは荷物を持ち、ピントの惚けた扉に向けて出て行く画面は秀逸だと感じた。それは彼女が幻との決別、見えない未来への決意、過去への悲しみの消化、自身の愚かさの認識、様々な捉え方があると思う。

 

見終わって、しばらくは言葉出ない。信じたものの裏切りを自分のことのように感じ、彼女の心のゆらめきと決意を示す儚くも強い演技に圧倒されるエンディングだ。

もちろん、いくつか疑問の残る点もある。なぜ夫は自分の靴を残しておいたのか?サッサと処分しなかったのか?売れると思ったから?いつかこの日が訪れることを想定して?たった一つの過去の思い出として、いくぶんかの愛情があったから?色々と思うことはあるが、ここがひとつだけ引っ掛かる。

 

舞台が終戦直後のベルリンであり、僕としては苦手な(戦争が絡む映画は苦手なのである)舞台上での真実の愛を求める映画だと思う。単に「切ない」だけでは表現しきれない哀愁のある映画だと思う。この手の映画は観るタイミングが難しいなといつも思う。それは、自身がその時点で持っていた感情によっては激しい怒りだったり、深い悲しみだったり、最後のシーンを未来への一歩と感じ、喝采に似た気持ちだったりと変わるからだ。

だが今は、タイトルの「Phoenix」の意味を肯定的に捉えたい。だからこそ「Speak Low」をエンディングに選んだのだと思うから。

僕はこういう映画は好きだ。観た後に映画を何度も何度も自分の中で巻き戻し、自分の中で咀嚼しつつ、自身の人生に深く刻み込む。小説と同様に、これも自分の人生の糧の一部になるのだろう。また良い映画に出会った。そう感じた映画である。