南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

大人になりきれない子供たち

まあ、今更な話題ではあるが。

大人になりきれない子供たちが多い。なにもアニメを見てばかりとかゲームに熱中するとかそういうことじゃない。それはただ、僕らの時代の大人がエロ雑誌を読んだり仲間を集めて麻雀をしたりパチンコしたり酒を飲んだりするのと同じだから。対象物が変わっただけのこと。

僕が思うのは思考の停滞のことだ。

 

もちろん障がい児のことでもない。普通に「大人」。例えば以下のようなことだろうか。

  • ものごとに対する執着が強い
  • 論理的思考の欠如
  • 想像力の欠如
  • ルールやマナー、道徳観の欠如
  • 「気づき」の欠如
  • 他人への配慮の欠如
  • 他者への忌諱と怖れ

なんとなく具体的なことに欠ける気もするが、公園や街中で遊んでいる子供を見れば良いだろう。小学生、あるいは小学生にも満たないような子供のするようなことを大人が平気でする。20代ならまだ分かる。それが30代、40代、ましてや50代になるとタチが悪い。公共の場で大声で話す、他者を押しのけても自分の希望を通そうとする、周囲を見ず、自らのやりたいことだけをやる。他人がどうなるかなんて想像もしない、できない。

人間は老齢になると頑なさが増し、所謂「頑固」にはなるが、成熟した大人であることは代わりない。上記に挙げたようなことはない。それは子供の振るまいとは違う。認知症などによって退行を起こすような場合は別としてだが。

 

どうしてこんなことになったのだろう?

 

  • 他者と関わることが減ったから?
  • 経済的余裕が無くなったから?
  • ITを含むコミニュケーションツールが増えたから?
  • 何でも自宅で済ませられるようになったから?
  • 本を読まなくなったから?
  • 映画やドラマを観なくなったから?

 

いずれにしろ多くの社会的変貌が今の世の中を作っているのだろう。ただ、これは善し悪しの問題でも無いと思う「そういう世の中になった」ということだ。時代が代われば人も代わる。多くの要素と時間を経て、それが今という世の中を作ったということなのだろう。個人や特別な「何か」のせいではない。

 

ただ、それがあまりに急速で世代間の差、個人間の差が大きすぎて、自分のみを一つの単位として他者を考慮しない人間が圧倒的に『強者』となり、その昔「正しいとされたような人」がある意味『弱者』となり果てている。しかしそれでさえ「善し悪し」ではないと思う。

正しい人は弱者として生き続けるか、自身を変えて強者に回るか、別の人生論を編み出すか。いずれにしろ、その昔に「正しいとされたような人」には生きにくい社会になっていく。そういう流れがあるのだ。

 

未来を憂う気はない。社会が代わっていけば、自ずとそれに適合した人で形成された社会になって行くだけだ。それがどういう結果を招くにしろ、結局は「自業自得」である。なんとなく「ソドムとゴモラ」を思い出す。もちろん極論であるが。そういう未来が待っている可能性だって充分にあるのだろう。もう個人の問題ではない。誰かがなんとかしなきゃでもない。あるべき結果に変化するだけだ。

ただ、そこに僕の居場所が無いだけで。