南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

この映画、オスカーをいくつか受賞ってことで劇場で一度観ていて、その時にはなんとなく色々と考えること、悩むことがあって今回BDをレンタルして再視聴してみた。買おうかなとも思ったのだけれど、自分の中でどうしてもスッキリしない部分があったので、まずレンタルを借りてみようと思い立ったのである。

 

さてこの映画、オスカーでは作品賞/監督賞/脚本賞/撮影賞を受賞している。改めて観てみて、丸一日色々と考えてみた。

監督賞、撮影賞は妥当・・というか凄いと思う。まずはワンカットで撮ってあること。これは随分騒がれているのでご存じの方も多いと思う。BDで再試聴し、付属してある特典映像を観ればそれが如何に大変であったのかが良く分かる。このワンカット撮影は、ただ物珍しさだけの手法ではないと感じた。うまい表現ではないが、これはやっぱり「映画」というよりは、「舞台」なんだと思う。それはレイモンド・カーヴァーの短編小説の舞台「愛について語るときに我々の語ること」が、映画と共に進行し、主人公の立場をそれに重ねてくることにマッチしている。特に演劇評論家が主人公に向かって「あなたは演劇家ではないし、ただの有名人」という言葉がそれを表している。

更にそれを際立たせているのが綿密に計算された俳優陣の配置と動作、そして時を刻むかのように延々と続くドラムビートなんだと思う。失敗したら撮り直し、細かく撮影してデキの良いシーンをつぎはぎもできない。これは今までに無かった映画だ。そういう新しい試みが成功している。俳優陣の演技も素晴らしかった。

 

ただ、それが作品賞/脚本賞となるとどうにも違和感がある。

凝った演出が新しい映画を作った。主人公の超能力やバードマンの言葉が統合失調症の妄想に似たようなものだと分かるまでの不思議さ、スーパーヒーローとしての昔の輝きを取り戻し演劇評論家からも評価を得たいし、離婚した妻と成長した娘とも良好な関係を取り戻したい。しかし上手く進まない日々の自分に、舞台「愛について語るときに我々の語ること」が重なる。

結果的に、全てに絶望した主人公は舞台上でその設定の通り、自殺を図るが、結果的にそれが奇跡を生むわけだ。

 

しかし僕は、映画は観る人が「何か」を受け取るものだと思っている。それは楽しさだったり郷愁だったり悲哀だったり興奮だったり。この映画は凝った作りが逆にストーリーを見せにくくしてしまっていて、結局どうにも消化不良を起こす。

 

最後のシーン、結果的にそれを観客がどう受け取るかどうかによってこの映画に対する思い入れが変わるだろう。でも、個人的には「これが作品賞かなぁ・・?」であったわけだ。

 

とりあえずこれで2回観たことになる。時間が経ったらもう一度観てみよう。また評価が変わるかも知れないしね。