南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

人生の生きがい

病気休暇に入ってもうすぐ3週間になる。

外出にある種の恐怖を感じたのがそもそもの発端だけれど、ここ一週間ばかり、もし仕事を辞めた時は今のような状態なのかな・・と思うと、大きな不安と若干の恐怖を感じるようになってきた。そして危険を感じて自宅で過ごしている。しかし・・

 

なにもない・・のである。

 

家事はしている。適度な運動も。猫達とも遊んだり、こうやってブログも書いたり。でも、この先が不透明で何も見えない。満足感がない。暗闇に対する不安と恐怖に似ていると感じる。

仕事を辞めたら足のことを考えて自宅でできる仕事を探して・・いや、そもそも自分の「やりたいこと」ってなんだろう?と。50を超えて惑った。論語だっただろうか?

 

  • 四十にして惑わず
  • 五十にして天命を知る
  • 六十にして耳従う

 

本来なら社会の仕組みも人に対する洞察も育ち、自分の位置付けや身近な人達との関係構築が熟成している頃だろう。「五十にして天命を知る」。自分の天命?そんなもの見付けられやしない。

生活の不安、対人関係の不安、仕事の不安、そして己の未来の不安。先の見えない未来に不安を抱くことは愚かだとしりつつ、それでもその不安はコントロールできることではない。まずはなんでもいい、行動してとっかかりを見付けることだと。

 

材料を探す。自分の持っている才能、経済的状況、交遊関係。決して悪く無い。いや、むしろかなり恵まれている。悪いのは足と、それを理由に変にストレスを抱え込むこの心だ。他人が悪い?社会が悪い?そんな屁理屈はどうでも良い。自分がコントロールできる部分に注力するのが正しい。感情は脳が勝手に作っていることだ。

 

この手の命題や手法を解説する書籍やサイトは多い。目標を持つこと、自分にとって楽しいと思えること、誰かの役にたつこと。加えて、自分の嫌なこと、やりたくないこと。そんなこたぁ随分前から分かっている。知っている。多くは経験もしている。方法論は今更いらない。理由もいらない。おそらく欲しいのは「きっかけ」なんだろう。

 

もう一度。「五十にして天命を知る」。であれば、自ずとわき上がるものがあるんだろうかと思う。休暇は1月の末まで。もうしばらく自分の人生を考えてみたい。死ぬときに「俺の人生は素晴らしかった」と思えるような、生きがいのある人生を。

 

煮詰まってきたのでちょっと発散してみた。ご勘弁を。とりあえず家人と猫たちと一緒に映画でも観るか。