南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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【ネタばれあり】誰もが子供の時代に両親から聞かされた教訓(映画:怪物はささやく)

「誰もが」「両親から」とタイトルを打ったが、最近はそうでもないのかもな・・と書き始めて思う。時代と共に子供に対する親の位置付けや育て方みたいなものは変わっていくものだし、それこそ「家によって」違うのだろう・・とは思う。だが、僕にはこの物語は「ダーク・ファンタジー」と言うよりは「童話」と言った方がシックリくる。

 学校ではイジメに遭い、母は闘病、祖母は厳しく、そして毎夜「同じ悪夢」にうなされる・・そんな多くの問題を抱える思春期の少年、コナー。彼の「同じ悪夢」は、母が「癒やしの木」と語った丘の上の木がモンスターに変わり、3つの物語を語り、そして「4つめの物語は自分で作れ」と迫ってくるものだった。

実は、この映画、近所での放映館がなく、結局、池袋まで出掛けて観た。そもそも僕はファンタジーは苦手であまり乗り気ではなかったのだが、家人が「観に行きたい!」との一言で鑑賞するに至ったのである。

PVなどで怪物の姿があまりにド派手に流れるものだから、どちらかと言うと特殊効果満載の(まあ、そうでもあるが)「ドカドカ系」か?と最初は思っていた・・が、終わってみればこれは幼い自分に母親が聞かせてくれる「物語」に似ている。日本人だとあまり馴染みはないかも知れないが、海外の映画では両親のどちらかが子供の寝物語として様々な物語を聞かせるシーンがある。あれだ。この映画、それをそのままビジュアル化したという印象を持った。

確かに怪物の姿は刺激的だ。建物を破壊するシーンなどは近年のVFXの進化に恥じない見事な仕上がりでもある。だがもちろん、そこに映画の主軸はない。この映画は、それぞれの家庭で親が子に伝える、ある意味では教育的で、そして興味をそそられる物語である。それは最後に明らかになる。そこは後述しよう。

真っ先に浮かぶのは、コナーの「現状」だろう。この歳の子供にはある意味ありがちではあるかも知れない。母親が闘病で儚き命であることを除けば。こんな時、よく観る映画では、どうやってその苦境を自分で乗り切るか?を親が道を示してあげることだろう。日本では親が子供と同じ立場になって興奮して学校相手に乗り込んでくるらしいが、この物語ではそんな下品で短絡的なことにはならない。あくまで親が示した道を自分で考え、手探りで進み、自分なりの「解」を見付けることであると思う。

しかし、コナーは病床の母親と会う時間は少なく、厳しい祖母(シガニー・ウィーバー!)はとてもとりつく島もなさそうだ。だが、その「道」は既にコナーの中に教えられていたのだ。それが「怪物」の正体である。最初からコナーは怪物をあまり怖がらない点が不思議でもあったのだが、その真実が最後に分かる。

最後のシーン、母親がコナーに見せて聞かせたと思われる「絵本」が見付かる。そこには怪物の姿が、怪物が語った意味ある物語が、そして、怪物から与えられた試練・・いや、これも「道」と言うべきだろう・・がシッカリと描かれていた。そう、彼はもっと幼き頃、この内容を母親から聞かされていたのだろう。心が少しジンとなる。「チッ、こんな子供だましに引っ掛かるほどオレはヤワじゃないぜ?」と言いたいところだが、なんとなく自分が子供の頃、貧しかった家庭、僕たち兄弟のために昼夜を問わず仕事をし、そして家事も子供の相手もシッカリとしてくれた母親を思い出す。ここで二回目の「ジン」。以前のエントリーで「至誠に悖るなかれ」と海軍五省について触れたことがあるが、これは、そうやって自分の生き様を見せることで子供に生き方を見せ続けた母親に対する自分の想いでもある。今の僕の行動は母親に見せても恥ずかしくないものか?・・僕自身はいつもそれを心の底に収めている。僕には「怪物」は与えてはくれなかったが、母親は僕の生き方に「道」を示してくれたし、両親に限らず大人とはそういうものだと思う。この映画はそれを思い出させてくれる。

はじめに戻れば、そういう点もあり、日本人的には「童話」なのだと思う。「童話」には多くの秘められた「想い」が込められている。それを映像化すればこういう物語になるのだろう。個人的には、あまりに怪物に視点が持っていかれるところがマイナスではあるが、リーアム・ニーソンの腹の底まで響く声が今も耳に残っている。そういう意味でも、良い映画なのだろうな・・と感じる自分に違和感はない。そんな映画であった。