南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

エレベーターで(というか日常的な行動で)バレる、その人の品格(俺的目線で)

うーん、そういうこと?ちょっと納得できない部分があるというか・・。

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まあ、色々とコメント欄に僕が思っていることは既に書いてあるので、それはまあ良いかな。ただ、個人的にエレベーター・・というか、日常的な行動でその人の品格みたいなものは出る。しかもそれは顔にも出る・・というのは前にも書いた。

では、どんなところがエレベーターという個室において品格が無いと思うか?僕的にはこう思う。

とにかくスマホ命

人が少なくてスペースがあれば良いってモンでもない。とにかくズッとスマホを弄っている人。もちろん歩きスマホ常習者でもある。何度か注意したが無視。僕はそれで怪我をしたこともあるので、ぶん殴ってやろうかと思ったりもするが、暴力で解決するのは良いとも思えない。

特に感じるのは、ボタンの前に立っているのに「開」も「閉」も押さない。それか「閉」だけは押す。こちらは混んでいたら後ろからノタノタとエレベーターを出ようとすると閉められる。スマホを弄っている上に、朝なんかだとイヤホンをしているから余計に他社の行動が分からない。小学生の頃、道徳の時間に?または社会人一年生の頃には必ずボタンの前に立って全員が乗り降りするように配慮するべし・・なんてことを言われたものだ。そんな年寄り臭い説教も良いとは思えないが、他社への配慮は「思いやり」として必要だろうし、その人の品格のひとつなのだと思う。こういう人は若者も年寄りもない。そういう人は「そういう育ち方をした人」なのだろう。

とにかく奥に陣取る

真っ先にエレベーターに入ったかと思うと、奥に陣取ってボタンなど知らんぷり。後から乗ろうとした人が、閉じられようとするドアにぶつかるなんてのも日常茶飯事だ。しかもこういう人はかなり多い。もちろんスマホ弄りもセット。どうしたんだ?日本は。日本人は。これも「自分さえ良ければいい」というひとつの見本だろう。で、例えば1Fに到着し、降りる際に僕が「開」のボタンを押して待っていてもスマホを見たまま謝意も見せずに真っ先に出ていく。もちろん、謝意が欲しいわけじゃないが、逆にどうしたらそこまで他人に対して無関心、無遠慮になれるものだろうか?そういう育ち方をした・・としか言えないが、別の理由があるのなら知りたいところだ。

キツイ香水で頭がクラクラ

これ、女性に限らない。男性でも近頃は・・というほど最近じゃないが・・どう考えても香水を付けすぎな人がいる。鼻がマヒしているんだろうか?廊下ですれ違っても、しばらくはその残り香で吐き気を催すことがあるが、それがエレベーターという閉じられた空間でやられたらたまらない。ハンカチでひたすら鼻と口元を抑える・・ところだけれど、僕は片手に杖がある。もう片手はボタンを押すので使えない。仕方がないので鼻で息をせず、口呼吸でなんとか凌ぐ。タバコの臭いが・・というのも頷けることではあるんだが、個人的には香水の臭いの方がはるかにキツイ。

エレベーターはお前の部屋じゃない

主にデカイ声で会話している連中。そんな近距離で、なんでそんなにデカイ声なんだ?降りてからすれば良いだろ?そんなこと。と、思う。以前にこんなことがあった。僕ひとりと昼食を外で摂ったと思しき男性三人組がエレベーターに乗った。その三人、上階の人たちなんだが、内容がひどい。テニスサークルに入って何人オトしたとか、あのオンナ(どうも同僚のことらしい)はすぐに○○る・・とか。聞いているだけで恥ずかしい。他人が乗っていてそんな話しができる神経が理解できない。

オフィスにいても、仕事と無関係のことを話すなとは言わないが、それでも私生活のことを延々と大音量で話す人がいる。または、自分ではなく、自分が仕事で出会った人の悪口、またはその相手がどんなに偉い人で、そんな人との人脈(というのか?これ)を持つオレ様がどんなに凄いか、ってな論調で語る語る大部長様。職位は高いかも知れないが、人としての品格は最低だな、お前。と、いつも思っている。

エレベーターという小世界(総じて)

そうやって人を見ていると、その人の品格がよく分かるし、やっぱりそういう人はその品格に応じた人相をしているものだ。以前のエントリーで、人間、大人になったら自分の顔に責任を持てと言うことを書いたが、それは正しく品格は顔に現れるからである。タチが悪いのは、そういう人は得てしてそれに気付かないし、今後も気付くことはないだろう。

ただ、ちょっと考えて欲しい。エレベーターで同乗している人が上司だったら?ひょっとして社長だったら?両親だったら?それでも同じ態度を取るのか?ということだ。それがいつもと同じだとハッキリ言えるのであれば、大きくは問題は無いだろうと思う。もちろん、それでも「気付いていないこと」はあるとは思うが、そうやって相手を置き換え、または自分を置き換えてみることは「気付き」において大切なことだと思う。

まあ、そういう人間を作ったのは、その前の世代だ・・というのもあるし、自分もその責任の一部を負う大人なのだなと考えれば、自分だって足りないことはあるんだろうけれどね。日々の行動に責任と誠意を持つ。「至誠に悖る事なかれ」だ。