南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

【ネタバレ】グロさが全てを上回る(殺戮にいたる病:我孫子武丸)

あまりに有名な作品・・なんだけれど、実は初読な上、内容を知らない。ただ、そもそも「猟奇殺人」が苦手なのだけれど、やっぱり著名な作品は一度は読んでおかないと・・と思って、ここ2日で「殺戮にいたる病」と、まったく逆のテイストである「世界からねこが消えたなら」を読んだ。後者はまあ、あまり書くことがないのだけれど、せっかくなので前者について書こうかなと。えっと、ネタバレで書くので、未読の人は読まない方が良い。この先、この本を読みたいなら・・だけど。

f:id:rei1963:20160820110304j:plain

最初の殺人。それは彼にとって初めての性的興奮を覚えるものだった。真実の愛を見付けた・・そう感じたかれは、次々と殺人に走る。そして、その「愛」は他者にとって猟奇的なものだった。

んー・・こんな感じだろうか。

 

まずこの作品は「叙述トリック」である。そう、「ハサミ男」とか「葉桜の季節に君を想うということ」辺りだろうか。というか、僕はこの二作しか読んでない。そもそもトリックものは苦手でもあるし、正直に言うとこの作品が叙述トリックだと知らなかった。上述したように「著名な作品は読んでおきたい」から読んだのである。

で、肝心のトリックには終盤(中盤だったかな?)で気が付いた。それは、主人公である犯罪者が、母親に対する外見の説明と心の想いを書いた時だ。「違い過ぎる」と感じたのだ。主人公が持つ「母親像」と、小説内に登場するミスリードとしての主人公の母親が。

誰でも小説を読む時には頭の中にその情景や人相などを心に浮かべて読むと思う。再度本を開けて見る気になれない(悪い作品という意味ではない)ので自分の感じたところなのだけれど、小説内で主人公が語った母親は、清楚で美しい、完璧な母親だった。ところが、僕が小説の中に感じたミスリードの母親は、どうも野暮ったくてせかせかしており、子供から見ると「鬱陶しい」ことこの上ない母親である。だからこそ容姿もその辺のドラマに出てくるような一般的な「オバサン」を想像していたから。

もちろん「猟奇殺人」を犯すような犯罪者であるわけで、その辺の感覚が既に常人からかけ離れていたとも言える。だから、そこを頭の中で補完してしまうのだろう。それこそが叙述トリックなのかも知れないが。

 

でだ。書きたいところはそこじゃない。

改めて自分が「グロさが苦手」なのがよくよく認識できた。映画の一シーンでも必然性があれば苦手でも観る。だって物語に必要な部分は欠かしてはいけないシーンだから。でも苦手であることは変わりない。

この作品、「猟奇殺人」を前面に出し、その裏で叙述トリックを仕掛けたことがあまりに巧妙であって、ポイントはそこだとは分かっている。そこを除いたら普通の殺人事件を扱った作品だから。特別捻ってもないし、実に読みやすい。殺人者の様々な手前勝手な心の動きが、何となく自分の心にも存在しそうな部分をわずかにタッチしてくる感触。「いいや、俺は違うよ」と思いつつも、理解できそうな一面。そういうポイントは巧いなと思う。

だが、やっぱり「グロすぎる」。ここまで書く必要があったのだろうか?いや、あったのだろう。叙述トリックを完成させるため?だとは思える。「グロさ」が犯人の異常さを際立たせ、その背後にあったトリックに気が付かない。というか、無理矢理意識の外に追いやってしまう。これが最初から叙述トリックだと知っているミステリーファンならいくつか気が付くポイントはあるんだと思う。ただ、僕には上記で書いた違和感以外はとにかくグロくてグロくて気が付けなかった。正直、吐き気を催すくらい。老いた元刑事、殺されたその元刑事の知人(片思いの恋人?)の妹、その辺りを巻き込む人達の心の葛藤もたくさんあった。考えてみれば、元刑事については色々と記述があった・・いや、「考えてみれば」ってなんだ?と自分の心に問いかける。そのくらい、全てを吹っ飛ばされる「グロさ」だったのである。しかし、実際に「猟奇殺人」とはこういうものだとも同時に思う。そこを突きつけられたこの作品の威力は正直、凄いと思う。

 

ある意味、そう点で成功しているんだろうな、この小説。そもそも「名作」だと言う人が多いんだから。だけれど、この手の作品なら個人的には「葉桜の季節に君を想うと言うこと」の方が百倍は好きだ(もちろん比喩です)。グロさなんて、実際には身近にたくさんあるのだろう。殺人ではなくても。だけれど、幸いにして実際に目にすることがない幸せを今は感じるくらい。僕にとって、そういう作品であった。