南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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障害者は何も生み出さないわけではない(相模原の凶行に対して思うこと)

先日大きな、そして不幸な事件が起きた。多くの人がその事件について知り、語り、考えていることと思う。そう、相模原の障害者施設で起きた事件である。

犯人は「後悔」していないと語っているらしい。ニュースは様々な報道が既に出回っていて、犯人の異常性についても色々と報じられている。個人的にはそのキッカケやそこにいたるまでの詳細については知り得ないが、「何か」が彼を狭い世界に住まわせ、学びのない人間にしてしまったのだと感じた。せっかく「自身とそれを通じた社会への堅実な変革」の機会を得たというのに。

 

障害者と健常者のそれぞれの社会を二元的に考えた場合、両者は交わらないと思う。表層的な見方をすれば、障害者に建設的な社会の構成員としての存在意義を見いだせないかも知れないという思いである。だからこそ酷く歪んだ独善が凶行に走らせたのではないか?と僕は想像している。あくまで個人的な想像であることをご容赦願いたい。だが、書きたいことはこれから先のことだ。

 

しかし、その考え方は僕の目から見るとかなり狭量な見方だ。それは僕の家人が障害者施設で働き、帰宅した彼の姿をよく見ているから分かる。


彼は毎日多くのことを障害者から学んで帰ってくるのだ。帰宅時のコーヒー一杯の会話、食事の際に交わされる一日のできごと、寝る前の他愛ない会話からもそれが良く分かる。それは障害者の社会に接し、それを支援することで交わらないと思われる両者の社会に、お互い深く影響を与えるからだと思う。彼等の苦悩や哀しみや怒り、そして楽しみや幸せ、喜びなどの感情を発露とした行動への対処、気持ちをうまく表現できない彼等に対した時の家人の様々な思考や行動が、家人自身を大きく育てているのだと感じる。つまり、支援者は障害者の行動支援をしているだけではない。同時に彼等から多くのことを学び、変革していくのだと思う。もちろん彼自身がそもそも思いやりのある人間であることも要因のひとつではあるのだが。

 

これはある意味、大仰に言わせていただければ、進化の過程と同様なことだと思う。それも、僕が以前から書いている「相利共生を目指す社会」への変革だ。進化だと書いたのは、地球が生まれ、様々な生物が進化する上で必要だったことは、環境に適合するために、それぞれ個体や社会の変異や変革だったハズだ。それと同様のことが障害者と健常者の間で起こる。個人の利害を優先した社会は、凶暴な動物を同じ瓶に入れた状態と同じだ。最終的に残るのはただ一匹。それすら最後には死に絶える。僕の考える「社会」というのは、そういったことを防ぐ意味からも、互いを尊重し、思いやりのある優しい関係を築くことが必要だという信念からだ。

 

だいぶ大風呂敷を広げた感はある。だけれども、僕達が障害者からも多くのことを学んでいることを忘れて欲しくない。目の前に家人という実際の見本がいる僕からの願いだ。