南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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不世出のシンガー、尾崎豊

どうしてこのエントリーを書く気になったかと言うと、尾崎ファンの人はご存じのことと思うが長男がとうとうデビューを果たし、その歌が「尾崎豊に生き写しだ!」と報道されたからである。

尾崎ファンの皆さん、そう思う?僕はまったくそう思えない。自分自身が内面で、若くしてこの世を去った尾崎豊を美化しているのでは?と思って、昨日はずっと昔買ったアルバムを聴いていた。尾崎豊の歌は「心にドカン!!と突っ込んでくる!」と感じた。いや、こんな形容詞じゃまったく伝わらないほどに。もちろん当時でもそう思ったが、今、この年齢になってもその思いはまったく変わらない。懐かしくもある。

 

もちろん、僕が尾崎豊とあまり変わらない年齢であって(僕が2歳年上)、自身の若き日々を投影しているということも影響がないわけじゃない。それでも、この年齢になっても「卒業」を聴いて当時の生々しい記憶を掘り起こされ、「Forget-me-not」を聴いてその恋の切なさを感じ、「Freez Moon」で若さの爆発を見る。歌詞、歌声、メロディ、全てが尾崎豊という歌い手を通じて自分の心を揺り動かす。「ダンスホール」で「カネが全てじゃないなんて・・キレイには言えないわ・・」というくだりで涙が出そうなほどシビれる。そんなシンガー、今の日本にいるだろうか?個人的な思いだと分かっていても「いない」と断言できる。下のサイトに「Forget-me-not」の録音時のことが書いてある。僕も同じ思いだ。

www.sony.jp

 

彼の曲は様々な人にカバーされた「I LOVE YOU」などはカバーも含めて全世界で1,000万枚のセールスを記録されているらしい。それほど愛された曲であって、他の誰が歌っても「尾崎豊のI LOVE YOU」には遠く及ばない。「想い」がまったく違う人が歌ってもそれは「まったく違う歌」なのだということを改めて感じるだけだ。

ある歌手などは、巧く歌おうと思っているのだろう。「Forget-me-not」が薄っぺらいラブソングになってしまい、聴くに堪えない。ハッキリとその歌手すら大嫌いになった。

 

そしてそれは長男の歌声も例外ではない。心にまったく届いてこない。なまじっか声が似ているせいか、それとも巧く歌おうとしているのか、もしかして似せて歌おうとしているのか?それは分からないが、僕が聴いた長男の歌声は「まったく別の歌」であることは変わり無かった。

もちろん、これからの期待が無いわけじゃない。なにせあの「尾崎豊」の血をひいているのであるのだから。これからの彼の成長には大いに期待している。というよりは、それだけの才能の産声を聞きたいだけなのかも知れない。

 

実は、僕の中では「尾崎豊」は、アルバム「壊れた扉から」で終わっている。それ以後に発売されたアルバムには僕の知っている「尾崎豊」はいなかった。ヒットはしたようだが、それはまったく違う「尾崎豊」だったから。

 

同じように歌が心に届くような歌い手は他にもいる「美空ひばり」「山口百恵」「DreamsComeTrue」とか。他にも何人かいるだろう。最近では「Charisma.com」のラップも僕は高く評価している。そもそも「歌」というのは何であるのか?それを伝える「シンガー」の才能とは何なのか?具体的なことは何一つ言えないが、自身が受け取る「何か」は明かに違う。共感なのか、快楽なのか、哀しみなのか、怒りなのか。ただ、「歌」は受け取り側の気持ち次第ではないとも言いたい。歌い手の想いと才能の結実であると。失恋した時に失恋の気持ちを語る歌を聞いたら癒やされるか哀しみが湧くかするだろう。そういうことじゃない。自分の中に眠っている「何か」を掘り起こされたり、新たに作られたりすらする。それが歌い手の想いと才能だと言いたいのだ。

 

別に誰がどんな歌手を好きになろうと構わない。だが、「尾崎豊」の歌を歌うのは許せない・・そんな気持ちが今でも強くある。彼の歌は、彼が歌ってこそ「尾崎豊の歌」である・・そう強く感じる。彼でしか表現できないものがある。だから、彼を振り返るために様々なイベントやら書籍販売やらカバーやらやって欲しくない。彼の想いは、彼自身が歌うその1曲1曲にしか詰まっていない。

 

「天才」という言葉は、「奇跡」と同様に最近は軽くなってしまっているので使いたくはない。だが、彼は「不世出」であったと思う。今でもとても強く、繊細に。