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南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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百億の昼と千億の夜

本はたくさん読むけれども、感想を人に聞かせるのはあまり得意じゃない。受け取り方はそれぞれだし、自分自身、他人の感想を読んでみても「あぁ、そうか」くらいしか思わないからだ。それでも親しんだ、または衝撃を受けた作品には触れてみたいと思うこともある。それがこの「百億の昼と千億の夜」である。

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物語のテーマとなるのは「神とは?」と「宇宙とは?」と「人間とは?」であると思う。最初に読んだのは小学生の頃で、漫画版だった。著名な漫画家である萩尾望都氏の作品としてだ。タイトルからして壮大な予感をさせる本であるし、テーマにおいても同様。そして、読んでみても同じだ。そもそもが自身が感じる短い人生において、とてつもなく広く長い時間の物語である。

小学生の頃は、正直、今一つ意味が分からなかった。その後にある程度の大人になって読み返してみると、物語に根付く宗教観、SFとしてはやっぱり意味不明なポイントが目に付く。

それでも「アトランティス」という単語は人類史以前に反映した、科学の発達した都市だという魅惑的な意味を持っていた。最初に「ポセイドン」「オリハルコン」を耳にしたのは、おそらくアニメの「海のトリトン」であったと思う。トリトンが使っていた短剣がオリハルコンであったし、闘う相手がポセイドンであった。ポセイドンはその後に「バビル二世」で忠実な僕としてのロボットであったが、僕の世代では馴染み深い単語であると思う。

 

さて、この作品。結局、大人になって読み返してもやっぱり今一つうまく咀嚼できず、小説版も買って読んでみた。小説版は漫画版といくつかの点で異なっている。ひとつはイスカリオテのユダの存在だろう。小説版ではほとんど出てこないし、重要な役回りではない。次ぎに感じるのはオリオナエ(プラトン)の後の姿だろうか。他にも細かいところでの違いはたくさんあるが、とにかく小説版は個々のSF的単語が分かり難くて、だからこそSFらしさがあるのも分かるのだけれどそれが物語への没入を妨げているように思う。

また、漫画版の不明な点の補足として捉えていたが、そこは同様に分からないまま。むしろ、画像として表現されている漫画版の方が色々と理解しやすいことが分かった。

 

この本が興味深いのは、歴史上、または伝説上の人間なり神がそれぞれの役割を持って行動している点だ。それは「終末」における個々の思惑である。弥勒は「56億7千万年後の未来に破滅から人類を救済する」と言われている。しかし色々と調べると、弥勒が修行する兜率天は人間界の1年は400年に相当すると言われ、人間界では5億7千万年後ということになる。それでもそれはあまりに遠く、「果て」と言われてもピンとこない「果て」である。現実感を伴って思考しても、そんなに人類が存続しているとは思えない。5千年後と言われても同様であるのだから。ヘタをしたら500年と言われても違和感がない。現在の人間の退廃は今に始まったことではないだろうし、神話である「ソドムとゴモラ」は性の退廃であったが、現代はそれ以上ではなかろうか?と思ったりもする。

 

ちょっと脱線したが、本作の主人公は「阿修羅」「シッダータ(釈迦の本名で、漢字だと悉達多)」「オリオナエ(=プラトン)」だろう。彼等が弥勒の預言した終末の謎、そして「惑星委員会」なる宇宙の管理組織の謎を追う。漫画版ではそれにユダが加わるのだが、彼等が追っていたものは最終的に何だったのだろうか?結末においてもそれは明かにされていないのだが、そもそも宇宙の存在は、その更に大きな宇宙の存在の中の微少な核反応とも取れる言葉が残されている。よく、原子核、量子、電子などの動きや、人間の身体を「小宇宙」と称されることがある。この本で最終的に行き着く「宇宙の果て」を思わせる場面で、転輪王が阿修羅に見せるシーンでそれを感じさせる。いかに個人が、世界が、そして宇宙までが矮小な存在であったのか。その結末には驚愕させられる。

ただ、それを個人に置き換えてみて、「この宇宙に比べれば人間の存在などちっぽけなものだ」と言うのは筋違いだろうと思う。このよく聞く言葉、自身のミスや苦悩を緩和する言葉としては意味があるのだろう。だが、個々の人にとって、「世界」は「己自身」である。つまり、それが「世界の全て」なのだと僕は思う。そこに至り、このストーリーの結末が如何に壮大であっても、それが自分の世界感として実感できるものとは違うものだということがよく分かる。だからこそのSFだし、物語としてはとても面白いし、何度も読み返しているくらい好きでもある。では、犠牲になった人たちは?他の生物たちの生涯は?そう考えると、それが神の行った所業であっても、初めから決められた世界であっても無情だと考えてしまうのである。そもそもそこに「情」が介在する余地があるのかも疑問ではあるのだが。

逆に考えると、この物語はそういう自己を見つめ直す契機に溢れてもいる。その点も好きなのだろう。子供の頃であれば、自分がヒーローと同一化したような高揚感、大人になるとその大きな世界感に取り残され、見つめ直さねばならぬ「自分」という人生である。それがこの物語が「非常に大きな時間と世界」であることと同時に、自分の立つ「今」という時間の貴さを見返すことになる・・と表現すると言い過ぎだろうか?

 

また、この物語には仏教を基礎とした初めてお目に掛かる単語に溢れている。その言葉をひとつひとつ調べてみるのも良いと思う。自分の知らなかった世界感に触れることができる物語でもある。子供の頃に親者の葬式などで耳にするワケの分からなかった言葉の数々。それに再び触れ、考える契機を与えられる。この作品が少年誌に、それも1960年代に掲載されていたというのもある意味、驚きであると思う。

 

漫画と馬鹿にせず、一度は触れてみたい物語であると僕は思う。読む人がそれぞれ違う感想なり、世界感を持つことになるんじゃないかな。そんな作品である。