南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

腐ったミカンも簡単に捨てられないのだから(「愛の傘運動」廃止で思うこと)

先日、こんな記事を読んでから、さもありなんと思うと同時に近いうちにエントリーに書いてみようか・・と思ったりしていた。タイトルがどうも書きたいことを端的に表す文言が頭に浮かばないので、とりあえずこれにしてみた。皮肉であるのは分かるだろう。

www.chunichi.co.jp

最初にこの記事を読んだ時に、これが今の日本の縮図だと強く思った。見掛けは善良そうに、または普通の人に見えても9割程度は不道徳な大人たちだ。それが今の社会を構成している。それは僕の持っている「実感」とマッチしていて、何の不自然さも感じ無い。非常に残念なことだが。

 

これについて「どうして返さないか?」とか「返させるためにはどうしたらいいか?」なんてことも深く時間をかけて考えてもみたが、それは根本の問題でも解決策でもないと思う。現状の社会を構成をする大多数の人間が「そういう人」なのだ。そしてそれを事実と捉え、長い時間をかけて「道徳的な社会」に変えていくための行動をひとりひとりが意識し、そういった社会が到来するのを待つしかないのだろう。一個人の思いとして、せめて自分は道徳的であれと行動を律っし、その背中を見せつつ子供の成長を期待する。きっと何世代もかかるのだろう。不道徳的であることは「楽」であることが多く、落ちるスピードがとてつもなく速いのではないだろうか?道徳的であることは「多少難しく」なかなかそれを貫くのは更に難しく、そういった社会になった今、それを変えるのにはとてつもなく長い時間がかかるのだと思う。あるいは破壊的ななにか・・だ。

 

「たかが傘で・・」と思うかも知れない。でもこれは、そういった心根を持つ人が他のことに対しても同様な行動を示すことに他ならない。自分の利益になることだけを考えればそれで満足な人たち。善意がなんたるかを考えないひとたち。ボランティアとして善意の行動を起こした女子高生たちの気持ちを踏みにじる人たち。その罪の深さを想像できない人たち。想像はできても他人のことなど結局どうでも良いのだろう。それが「今の社会」だと僕自身実感していて、その一例がこういったことなのだと思う。

 

以前にリンカーンの名言として「40歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任を持たなくてはならない。」について書いたことがある。「至誠に悖るなかりしか」とエントリーにしたこともある。そして、元々は経済学の言葉だが「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉がある。日本にも「腐ったミカンの方程式」という言葉もある。人間は腐ったからと言ってポイと捨てるわけにはいかない。社会はそうやって腐っていくのだと思う。だからこそ、大人は自身の行いとして子供にその正しい背中を見せ続けていく自覚を持つ必要がある。腐った世の中は、いずれ自分にも返ってくることを忘れてはならないし、そもそもそう言った損得の問題ではない。

 

先日、エレベーターに乗ったら、小学生の男の子二人が先に乗って、ボタンを押して僕が乗り込むのを待っていてくれた。そして、僕が降りる時にも「開」ボタンを押していてくれる。もちろん僕はニコリと顔を向け「どうもありがとうございます。」と返す。電車でサラリーマンやいい大人が、優先席で杖をついた老婆の前や妊婦の前で平気で寝ている話しも散々書いた。だが、小中学生くらいの子供たちは座らないで立っていることを何度も見ている。そのエレベーターの時に優先席のことを思い出した。そう、子供はまだ汚れてはいないのだ。しかし、彼等も汚れた大人の行動を見、いつしか同じような大人になって行くのだろう。そう考えると悲しい気持ちになる。

 

なにか特別な対応策や仕組みを考えることも良いだろう。だが、本来は大人が正しい姿を子供に見せ続けていくことがとても大切だと思う。「せめて自分だけは」で良い。そう言う人たちが徐々に増え、そしてそれが長い時間をかけて大勢になればきっと社会は良くなるのだろうと思う。そうなるのは僕が死んで、もっとずっと先の未来だろうが、その夢は捨てていない。だから僕自身は「良き大人であろう」とこれからも生きていきたい。

まあ、政治や社会を率先して引っ張る役目の大人たちが「子供にも劣る道徳性」なのだから、時間がかかるのは仕方がないだろうな。

 

追記

今日読んだこの記事、「小さい子ども」どころか「多くの大人」にも通じるな。人工知能の暴走どころか「人間を悪として排除する」映画が作られてもまったく違和感がない。

www.gizmodo.jp