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南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

日常生活で思うこと、電子ガジェット、オーディオ、映画、小説を紹介するサイトです。

他人の人生に投影される自分の人生を考えさせられる一冊(中島らも:僕に踏まれた街と、僕が踏まれた街)

先日読んだ「ガダラの豚」がなかなか面白かったこともあり、著者の自伝的側面を描いたこの作品に手を出した。

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率直な感想としては、対比した「自分の人生の希薄さ」を真っ先に感じたのだが、よくよく考えればそうでもない。誰の人生にも掘り起こしてみれば様々なドラマがあって、それは悪しきことも悲しきことも、そして楽しいこともある。その辺の浮き沈みが読書という枠組みの中で「自分に無い人生」として鮮やかに浮き彫りにされるだけであって、それに対して自分の人生が「負けている」とか「勝っている」ということではないことを改めて感じる。それぞれに人生というものはあるのだ。

特徴的なところは、それが時代背景と地域性を反映した僕の知らない世界であること。いつも、ミステリーでもどんな本でも商業ベースに便乗したヘタな粗悪な啓発本より、他人の人生をなぞらえることで様々人の思考や生活、人生の機微はある程度の経験として積み上がるものだと僕は考えている。そういう意味でもこの本は面白かった。

ただ、もちろんこの手の本に対する好き嫌いはあるだろうなとも思う。人によってはつまらないだろう。ただ、そこで終わらせてしまうのは少々勿体ない気もする。ミステリーでも同様だが、他人の人生を同じように感じてみてこそ、自身の人生に投影されていることで気が付くことがある。そういう受け取り方を持ってみれば、この作品は面白いと思う。

 

この本の特徴的なことは、やはりその語り口にあると思う。軽妙でシャレててちょっとヒネくれている。それは「ガダラの豚」でも感じたことではあるが、こういう生身の実体験として綴られてみてもそれは変わらない。それは著者の実体験であるのだろうし、彼の文体なのだろう。かといって嘘くさい感じもしない。それは「ガダラの豚」を読んで興味を持った時に、著者の生い立ちやら背景やらを調べていたことも影響しているのだろうと思うし、読ませるだけの筆力(偉そうだが)ある事実でもあろう。

 

これを読んでいて思うことがある。実は、3月4月と続けて僕の友人が自死した。つまりそろそろ二人の四十九日も終わる頃である。もちろん、彼等が何故「死を選んだ」のか。それは周囲から聞こえる噂やら友人として僕が感じることも色々とある。それでもその死はやはり腑に落ちず、「どうしてそこまで」という気持ちは今でも強くある。それは当たり前だが、その理由は僕が当人で無いからだ。

出棺の折、初めて彼のご親族にお会いした。お父上は僕達友人に対し、ひたすら「申し訳ない」の言葉を続けていた。親の気持ちをしての複雑さは僕には分かり得ないけれど、親としての立場で、息子に親しくしてくれた友人たちに語る言葉はこれに尽きるのだろうとその時に思った。僕らよりも親御さん、親族の皆さんの哀しみは想像を絶するだろう。なにしろまだ40代である。それでも親しくしてくれていた友人たちに向けた言葉はこれなのだろう。今更おためごかしに綺麗な言葉を連ねても仕方がないし、そこまでの余裕は無かっただろう。心の底から絞られて口に出てきた言葉がこれなのだ。

おそらく僕に同様のことが起こっても、母親は同じように言うだろうと想像できる。自分の哀しみは抑えて、その上でそういうことを母親に言わせるというのは、それ以上の親不孝はない。端的に若い命が散ってしまう不条理さにも悲しさを通り越して腹も立つ。しかし、それが彼の人生だったのだろう。

僕が病気で苦しんでいる際にも、決して自ら命を絶とうとしなかったのは母親にこういう思いをさせたくなかったからである。これは本当の嘘偽り無い本音だ。自分の人生を大幅に削ってまで僕と兄を育ててくれた母。母は19歳で兄を、22歳で僕を産んだ。働かない父親に変わって昼夜を問わず働き、社会に出してくれた母親にどうしてそんな仕打ちができるだろうか?それは母の人生そのものを否定し、自身の「青春すら」息子に捧げた母にどんな顔向けができると言うのだ。もちろん、母には母の考えが合って、苦しんで続けていたわけではないと思う。母性がそうさせるのか、息子たちの成長が自身の支えであったことが自分の人生のモチベーションでもあったのだろう。

 

この小説を読んで、一見、ハチャメチャに生きているようで、個々の選択において自分の意志と、場合よっては家族を顧みた上で人生を選択していることも見える。もちろんそれは氏の多くの人生のわずか一部のできごとであるのだろうけれど、そこには生命力が溢れていると感じるし、ある種のはまるべきピースとして自身の人生の必要な場所にシッカリと嵌まる形状をしたピースなのだろうと思う。「こんな腐った世の中、自分も含めて滅びてしまえば良いのに」と感じる文面もある。それは現代を生きる僕も同感だ。しかし、そんな中でも氏は自分の人生でやりたいことをやり、人生とは時間を積み上げることをしてきた結果と感じるのである。こういう人生もアリなのだという強烈なメッセージとして。だからこそこの作品は自分の人生と違った生き方でも、僕の心を打つのだと思う。

さて、作品を読んで。細かいところでは、僕は酒はあまり飲まないし、そもそも友人たちと飲みに行くような人生は送っておこなった。それは多くは自分の性格による。人に自分の気持ちを見透かされるのがイヤなのだ。分かり易くいえば「見栄っ張り」なのである。そのせいかいつでも優等生であったと思う。いや、「あくまで表面的には」優等生であった・・が正解だろう。だからこそアルコールを借りたとしても自分を明け透けに見せる人間には嫌悪に近いものをいただいていたのだと思うし、バンドにも手を出さなかった。オートバイも市販車よりはレースから入ったクチでもある。流石にこの年齢になってくると単純にそればかりが良いとか悪いとか思うだけのシンプルさは無いのだが。この辺を時代のズレと取るか、それとも性格の違いによるものか?おそらく両方なのだと思う。興味深いのは冒頭にあげた通り、「僕には無かった人生であること」である。

 

「死んで花実が咲くものか」。そう思う。生きてこそ多くの楽しみを得、多くの挫折や哀しみも感じることだろう。ただ、それこそ「生きてこそ」味わえるものである。ご本人はそこまでのメッセージを持って書いたのではないのかも知れない。ただ、文章の受け取り方は受け手のものでもある。そういう気持ちを振りかえさせてさせてくれる・・そんな小説だと思う。たまにはこういうのも良い。

ただ、問題は、最近は昔のことをやたら夢にみる。これからの残りが見えてきた自分の人生において、「幸せになるための選択」として何かの示唆が働いている・・と考えるのは放漫だろうか?いや、そうでも無いんじゃないかなと思う。少なくとも、悪夢ばかりに悩まされた時期は最近は無くなったのだから。

頻繁に繰り返し読む本ではないが、有るとき、フト読みたくなる・・そんな本であると思う。