南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

いいじゃないの、幸せならば

昨日、この記事を読んで。色々と考える。なにせ同い年らしい。

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書いてあることは納得できるし、そうだと思う。ビジネスワーカーとして考えた場合には正しいというか共感できる。

でもなんというか・・激しい違和感。それはおそらく「着地点での自分の考え方との乖離」と「押し付け感」なのかなぁ・・と。

 

僕もこの人と同年代。というか、同い年か一つ年下なわけだ。で、自分は「ビジネスエリート」かどうかと言うと、その人の基準によるだろうが、年収と役職だけみたら世間的にはその中間よりもちょっと上くらいに含まれるのだと思う。まあ、ハッキリ言えばその言葉自体に違和感と嫌悪も感じるけれど。まあ、そういうものは近々捨て去るつもりなのでまり重要ではないが。

それでもこの年齢になってみて、自分の人生を振り返って、人生の更に残りの時間が見えてくると、この文章を読んで「これが自分の幸せな人生なのか?」という思いに駆られる。頑張りが少なかったから?いや、そこじゃない。

いくつか理由はある。ひとつは足が悪くなったこと。動けるうちに動きたい・・と最近になって強く考えるのと同様に、「人生の幸せとして、その年齢でなければできなかったことをしてきたか?」という思いがあるからだろう。もちろん時間は戻せないわけで、そう考えることは不毛だ。であれば、この先の未来において、今の現状を手持ちのカードとした上で「幸せであること」に時間を費やしたいと思う。そんな考えの上で、若者の着地点が「ビジネスエリート」だと言われると違う気がするわけだ。そんなことで人生の価値の尺度を測って欲しくないという思いだろう。まあ、この記事自体がその「ビジネスエリート」に絞って書かれているのだろうが。

 

もちろん、生活の糧として収入は必要で、それはある程度あればあった方が良いと言えるのだと思う。しかし、そのために「気が付いたら何もできない状態になっていた」では本末転倒なのだと思う。「自分の幸せとはなにか?」を人生全体を俯瞰した状態でプランニングしないと、大切なもの、特に「時間」と「人」を失うことになりかねない。

最近、ウチの家人(44歳)は生き生きとして仕事をしている。収入は少ないが、彼自身がやり甲斐のある、納得できた仕事に就いているからだ。それは障がい者支援に関する仕事なのだが、実に彼の性格やら人格に見合っている。その姿を毎日見ていると余計に自分の人生が幸せであったのかどうか?この先、幸せになるにはどうしたら良いのか?を考えさせられる。収入が高くて役職があっても、幸せなのは間違い無く彼の方だろう。ずっとずっと彼の方が上だ。

 

最初に書いた通り、記事の内容については納得できる部分が多い。特に「考え抜く」ところは同感だ。自分より少し上の年代から「考え抜く」人にあまり出会えない。それはビジネスシーンだけではなく、人生トータルとして自身のあり方、他人との関わり方、そして社会との関わり方を「考え抜かない」。

もう少し書き足すと、物事には必ず要因や理由があって、その要因には様々な種類がある。コトの起こりやこれから起こりえる事態に備えて「何故?」を繰り返し、要因や理由を因数分解することが「考え抜く」ことだと思っている。

「考え抜かない人たちの集まり」、その結果が現在の社会や個人なのだと思う。無気力で諦めが早く、他者への敬意を欠き、弱者への思いやりが欠如した人間たちだ。そういう人たちが更に子供を作り、社会をより悪い方向へ進ませていると考えている。今の大人は子供の手本にもならない人ばかりだ。そういった行為はビジネスシーンに通じるだけではない。

 

昔は良かった・・とばかりいうつもりは無いが、僕が子供の頃のお年寄りの言葉はひとつひとつが経験則に基づいた、幸せな人生を生きるためのキーワードにとても満ち溢れていた。それが今はどうか?他者を出し抜き、自分さえ良ければ良い人たちで溢れている。例えばそれを自分の位置する「会社」で置き換えてみても良い。単年度評価による人事評価制度と能力主義と名前を付けた、見かけ上の数字の獲得と上部への低頭。それができないものは切り捨てて行く。それが「幸せな社会なのか?」と。つまり「考え抜く」ポイントが非常に狭く、それをビジネスシーンに限ってしまうことには大きな問題があると考えるからだ。もちろんそれが「ビジネスエリート」を育てるのには必要なのかも知れない。がしかし、それが「良き隣人」を作るための手法には直結しない。つまり「考え抜く」ことはもっと広く使われるべきだと思う。

これは、ともすれば非常にビジネスに特化した「だけ」の社会における「思いやり」のひとつも無い規格外品を大量に世の中に排出することになりはしないだろうか?仕事柄、ビジネスシーンで様々な人と出会い、中には大企業の社長やら取締役ともなっている人たちとも出会う。だが残念なことに、現代の社会はすでに人間的な規格外品の集まり、そうなっていると実感する。

 

つい先日のこと、通勤時間に電車に乗ったら、相変わらず酷く優先席は混んでいた。目の前にイヤホンを付けた若い男女の居眠りが二人、もう一人はみなりのキチンとしたビジネスマン、僕と同年代の人間がスマホを一心不乱に見ていた。次ぎの駅で3席の中央の女性が立ち、周囲の人は席をどうぞと譲ってくれたのでありがたく座ったのだが、僕の斜め目の前にはお腹の大きな妊婦さんがいた。僕はビックリして立ち上がって席を譲ろうと何度もお願いしたが(こちらが心苦しいし恥ずかしいのだ)、結局「すぐに降りますから」ということでそのまま僕は座った。その間、若者は相変わらずイヤホンで寝込んだまま、みなりのキチンとしたビジネスマンはどうもニュースを読みふけっているらしい。自分は気どったビジネスマンのつもりだろうが、「ヒトとして」不良品だと言うことに気が付いているのだろうか?まあ、最近は、そんな輩ばかりだが。街を歩いていても杖に引っ掛かって僕を転ばせても謝罪など滅多に聞いたことが無い。振り返りもせず、淡々と立ち去るのみだ。これが今の規格外品ばかりの世の中である。まあ、周囲が規格外品ばかりなら、その規格外品の基準そのものも変わって、僕の方が規格外なのかもしれないが。世の中がB群人格障害ばかりなのか、ほ乳類がK戦略に変わって昆虫のr戦略にでもなったのだろうか(この辺、面白いので調べてみると良い)。むしろその方がシックリきたりもする。

 

昔は人間関係で悩んでいる人は少なかったと思う。少なくとも自分の周囲の人間は楽しく仕事をしていた。今の若者はどうだろうか?下の記事を読んだ時に、今の社会の病巣はそういうところにあり、結局それが風通しの悪さを生んでいるのだろうなと感じた。

「若者を叱咤」していると書く人は、その「叱咤」のある程度の内容くらいまでには言及しないと、いらない誤解と社会に不適合な若者を増やすだけでは無いのだろうか。

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「いいじゃないの、幸せならば」と歌うのは佐良直美さんだったろうか。もちろんそれだけで生きていけるわけではないが、最低限「幸せだ」と言えるような社会であって欲しい。そう願う・・というか祈りに近いから神頼みなのかもね。

 

追記

ところで、社外の人や知人間でも親しくない人なら相手がどんな人であろうと、常に「敬語であれ」と思うのは僕だけかな?それだけで放漫で欺瞞に満ちた人間像に見えてしまうと思うのだが。少なくともそういった語り口調を心地よく思う人はいないだろう。本人意外はね。部下でさえ和やかな笑顔の下には冷徹な自己判断があると思うよ。