南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

取り返しの付かない時間という生き物(仕事と人生と)

昨日、録画してあった「ホワイトハウス・ダウン」を観ていた。映画そのものは、若干「そんなのアリ?」ってな感じだったのだけれど、テンポが良くて会話もヒネりがあってそれなりに面白かった。気になったのが、その日が退官の老いたベテラン警護主任のジェームズ・ウッズが、部下に「仕事を人生にするな。そんな価値は無い。」的なことを言うんだよね。もちろんそれは映画の中での彼の立場、役柄に対するセリフであることは分かるんだけど、ちょっと心にグサリ。最近、こういうセリフが出てくると考えちゃうというか悩んじゃう。自分が今、こういう気分だから。

 

僕がバイクでレースをしている頃にもそういうことはよく聞いた。「バイクが仕事になったら良いね〜」なんて話をしていると、「楽しいことを仕事にすると楽しめなくなるぞ」というのが先輩達の意見だった。もちろん意味は違うし、僕が今悩んでいることはそういうことじゃない。

 

仕事って人生を賭してすることかなぁ・・と。

もちろん、仕事は生活を守るためには必要であるし、社会的貢献という意味でも必要であることで当然のことだとも思う。「働かざるもの食うべからず」である。働いたら負けとか言ってる輩もいるが、僕には「生きたら負け」とも聞こえる。馬鹿馬鹿しい。愚の骨頂を体現していることに気付きもしないのだろう。いくら現代が格差社会で勝ち組が勝ち続けるような歪んだ社会であってもだ。そもそも経済的な側面は何かしらの収入が無いと支えられないわけで、そのために存在することでもある。

しかし、仕事は同時に人生の時間の多くを消費するのであるから、そこには某かのモチベーションが必要でもある。今の僕にはそれがない。

 

若い頃は仕事は楽しかった。色々なことを覚えて、それが上手くできて、誰かに誇れるようなことになってくる頃だ。

しかし、それが上京し本社組織に抜擢されて一変した。強烈な学歴による縦社会。地方にいる頃は、人の評価は仕事そのものよりも、その人間性に重点が置かれていたことが良く分かった時期でもある。新しい職場は、昇進も評価も(当然給与も)基本的にどの大学を出て、どの系列の派閥に所属して・・なんてことが最重要なことだった。頑張って大きな成果を出しても「いない社員」的な扱い。評価を受けるのはウジャウジャといた東大やら京大やらの連中ばかり。かといって、そいつらが豊かな人生を過ごしていたようには思えない。流されて生きている。昇進と評価を得ることで、勘違いが助長されているように見える。そこもやっぱりピントがズレていたと今は思える。

流石に最近になってウチの会社もその傾向は薄れ、ある程度は実力主義と言えるようになってはいるが、決して無くならない。ある意味これは現代日本社会の縮図でもあり、「そういうものだ」と諦めに似た矜持を持つに至り、そして僕は心を病ませるわけである。もう20年も前のことだ。

それからは、「仕事は楽しい人生を送るために必要な予算を獲得するための苦しみ」と捉えるようになった。まあ、仕事自体はもの凄くハードでもなく、ある程度の下地としての技術も能力も自信があった僕には、頑張らないでもそこそこの成果を残すことは難しいことでは無かったことも幸いしていた。適当にやってりゃ過ごせたのである。

しかしその考えが、50代に近付いてきた頃に変わってきた。それは「人生の終わり」が見えてきたからだと思う。

 

このままで自分は、死ぬ直前に「俺の人生は豊かで幸せだった」と言えるのかどうか?いや、言えないだろう・・と。

ちなみに、以下のようなサイトで読んだ記事も心にずっと引っ掛かっている。同じサイトだが、時期を違えて書かれている。

www.lifehacker.jp

www.lifehacker.jp

ちょっとだけ引用する。

今、少しだけ時間を使って、50年経った後で振り返ってみて、自分がどのようなものを残しておきたいか考えてみましょう。

まさに僕は今、この時期に差し掛かっている。加えて言えば、健康は既に害し、足も原因不明の痛みで杖無しには歩くこともままならない。公園を走り回ることも、運動を楽しむことも、旅先で新しい地を散策することも難しくなっている。社会もいつの間にか他者には冷たく、自分さえ良ければ良い。そんな風潮が蔓延している。

今更ながら気付く。自分は何をしてきたのか?と。

 

「今でも遅くない」そんなことが言えるだろうか?言えるわけがない。この歳になって動かなくなった身体を持って、それでも生きていかなければならない。家族もいて猫たちもいて、経済的事情だけを考えたらそのまま続けるのが良い。

だが、間違い無く僕は死ぬ瞬間に「幸せ」を感じることはできないだろう。自分の人生をまっとうしたとは到底思えないからだ。

 

残された時間は多くないと思う。以前にも書いているが、命というのは儚いものだ。誰もが知っているくせに、多くの人が分かっていない。宝くじに当たれば1等が当たると思い込むくせに、明日、事故に遭って死ぬという想像は誰もしないし、僕自身も実感を伴わない。唯一の実感は、若い女性の同僚が、仕事中にくも膜下出血にてアッサリと逝った時だろう。彼女はどういう気持ちだったろうか。想像することしかできないが、自分になぞらえてみれば自明だと気付く。

 

今はこの先の生活のことで色々と悩んでいる。このまま続けていくことは良いことではないだろう。悪だと言っても良い。この身体の状況下で今の給与を得ることはできないだろう。それでもやっぱり死ぬ瞬間に「俺の人生は幸せだった」と言えるように、どこかで決断が必要なんだろう。今は毎日このことばかり考えている。決断を伸ばすことはそれだけ時間を無駄に使っていることだ。早ければ早い方が良い・・が色々と事情もあってなかなか踏み切れないでいる。人生は複雑でもあるのだ。

 

もしこれを読んでいる方が若く賢明であるのなら、ここに書いたように「自分の50年後の人生」を想像することをおすすめしたい。もしこれを読んでいる方が僕と同年代なら、今を振り返った上で問題があると考えるのなら「早い決断」が必要だと思う。残り時間は少ない。

 

1952年の東宝映画「生きる」。知っている人は知っている、黒沢明監督の名作である。そんな中に多くの人が知っているセリフがある「命短し 恋せよ乙女」。今の僕だからよく分かる。その意味を感じて欲しい。