南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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素晴らしい世界への扉を探して「小説:夏への扉(ロバート・A・ハインライン)」

桜の季節も終盤に差し掛かっているように感じる。明日は雨の予報で、桜の花びらも多くは散り、葉桜に変わっていくだろう。天気は今一つだが、今日は桜を観に行きたいなと思っている。後は体調がもつか。これだけは足を外に一歩踏み出してみないことにはなんとも言えないもどかしさがある。僕の毎日の体調への懸念は、「そういうタイプの体調」であることもある。

 

小説、しかもSF好きな人は一度は目にしたことがあるだろう、「夏への扉」。僕は基本的に洋訳書が苦手で、それは言葉のニュアンスへの馴染み方が日本語とは違ったり、カタカナの名前をなかなか覚えられなかったりするからである。映画の字幕だとそれほどの違和感が無いのは何故だろう?といつも思うのが、映画では日本人にはちょっと見られないスマートな会話も、小説だとどうも仰々しく、場面によっては空々しく感じてしまうからだ。

そんな僕でもこの「夏への扉」は大好きな作品のひとつである。今回はiPhone SEを買ったので、Kindleアプリの動作速度も兼ねて試し読み・・ということで読み始めたのだけれど、一気に最後まで読み切ってしまった。

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物語は基本的に「タイムリープ」ものである。

主人公、ダンは発明家。それも、「家庭の主婦が 、より快適に家事ができるように」という点に絞っている発明家だ。彼は発明が好きなだけで、経営には疎く、親友であったマイルズに裏切られ、そして愛していたベルが実は悪女であり、その奸計に嵌まり様々な事実を知らされ、失意のままコールドスリープを使って30年後に覚醒する。そして彼は自らの人生を再び取り戻すため時間を行き来し、見事、幸せを勝ち取る。

これだけ読むと割とありきたりに思えるかも知れないが、この小説の一番の面白さは、まずはその痛快さが基本線としてあることだ。

映画や他の小説にも良くあるが、途中までは主人公の思うように物ごとが進まない。読み手はどんどん悪しき人間たちの罠にはまって追い込まれていく姿にジリジリとする。ところがそれが最終的に、主人公の手腕によって見事に逆転することだ。

例えが悪いことは承知だが、テレビドラマであった「水戸黄門」があれだけ愛されたのは、勧善懲悪を貫き、どんなに困難があっても最後は正義が勝つ。これがとても気持ち良いからでは無いかと思う。この小説にはベースラインとして同様の軸がある。今の世の中が正しいものが必ず勝つわけでもなく、せめて創作の世界でスッキリしたいこともあるんじゃないかとも思うのは邪推だろうか。この作品が愛される理由の一つであると僕は考える。

 

この小説がそんなメインストーリーを更に面白くしているのはタイムリープを使った様々なギミックにある。全体を通して言えば、ストーリーに凄く凝っているわけではない。ただ、タイムリープで定番の「タイムマシン」に「コールドスリープ」を合わせ技で使っているところが秀逸であると感じる。前半のモヤモヤしたやりとりや不透明であった多くのことが、徐々にピースを埋め、最終的な大団円を迎える。驚くべきことは、この小説が1956年に書かれたことにもある。もちろん僕がまだ産まれる前で、僕が子供の頃にもこんな現実的な未来は考えたことがない。それは未来の生活の描写をあまり映していないこともあるが、「家事を補助するロボット」はよく考えれば現実的にいくらでも出て来ている。よく考えるのはクルマが空を飛んでいたり、人類が宇宙に簡単に旅行に行ったり、もちろんタイムマシンもできていて自由に時間旅行をできている。ロボットも人と変わらない動作をし、作業を担っている・・そんな感じのものだ。

ところがこの小説での「未来」は2001年でとうに過ぎ去っているのだけれど、たとえばロボット掃除機などはWikiなどで見てみると2001年に初めて販売されている。なんという先見!だろうか。この小説の舞台は1970年なのであるが、書かれた1956年の時点でロボット掃除機、自動食洗機や家事ロボットの出現を暗示しているのである。非常に現実的な未来だし、実際に即していると感じる。その点も異色であることを感じるのである。

まあ、こういった「未来を書く」という点ではジュール・ベルヌの「月世界旅行」が1865年、H・G・ウェルズの「タイムマシン」が1896年と考えればさほど不思議ではないのかも知れないが、この小説でのタイムリープの使い方が他の作品とは一線を画しているように思う。

それはやはり「未来旅行」にコールドスリープを使うことだろう。むやみにタイムマシンを濫用していない。例えば、1970年の時点ではまだ「タイムマシン」はできていなかったと考えたのだろうか?それでも「コールドスリープ」は既に出来ていて、それで未来へ行ってタイムマシンで戻る。それも今回は、タイムマシンはまだ一般的ではなく、同質量の物体を同時に未来と過去に転送してバランスを取る方法が用いられている。しかもそれは、未来に行くか、過去に戻るかすら分からない。イチかバチかの設定は「容易に何度もタイムリープを使えない」ことにも繋がっている。こういう設定がリアリティというか、「実際にありそうなこととして」設定されていることが「巧い」と感じさせる要素でもある。さらに、過去の偉人の発明や発見が、実はタイムマシンによるタイムリープによる未来人(今回はレオナルド・ダ・ビンチだが)の業績であることを臭わせていることも材料の一つだ。これがピラミッドやアトランティスではなく、レオナルド・ダ・ビンチでを選んだところが素晴らしいと思う。

確かにSFは「夢」であり、ある意味日常からかけ離れた非現時的な世界が見られることにも醍醐味がある。この作品ではそれをもっと身近にし、作品への没入感の補助的役割を担っている。つまりタイムマシンは「スパイス」だと思うのだ。もちろん、そこには物語そのものの面白さがあることは前述した通りだ。

 

もう一つ。

この物語には「猫」、ピートの存在が割と大きく書かれている。「猫小説」的な位置付けでも良く話題に出てくる小説でもある。その存在の意義を色々と考えるに、単に物語の味付けとしても良いのだけれども、ピートが「夏に通じる扉」を探し続けることが物語りのもう一つの主軸になっていると感じる。

猫に限らず、人生には様々な分岐点があるものだ。そして、それらは開けてみないと分からないドキドキとワクワクがある。もちろん、時には寒い吹雪だったり嵐であったりもするだろう。しかし、そうやって努力を続ければ、いつか自分の大好きな「夏の扉」に行き着くわけである。その行動をピートが冒頭から見せてくれている。とても重要な役割だと思うし、途中で悪者の撃退などの活躍シーンもあり、物語の全体のトーンを無機質なものから暖かみのあるものに変える効果もあるだろう。ピートは重要な存在なのである。

 

久し振りに一気に読んでみて、少しの疲労感はあるけれど、爽快さと心地よさが残った。とても良い小説であると思う。なにせ洋書が苦手な僕が推すのだから。