南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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切なさと温かさと(海街diary)

なんとなくAmazonでKindleの一覧を見ていて。

「海街diary」の7巻が既に発売されているのに気が付いた。

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この物語、今は映画化もされて有名になったし、今更なにを語るってわけでも無いんだけど。なんかね。切ないのに温かい。温かいのに切ない。言葉ひとつひとつの重さがその時の自分の気持ちに被さってしまって、他人ごとに思えなくて。たまに身を切られるような。そしてたまに心が温められるような。

 

人生を永く生きてくれば、それはそれで様々なできごとが自分にもあって。幸せなことも、悲しいことも。命の危険も何度か。もちろん楽しいことも。それぞれがそれぞれの年齢でしか味わえないものだと言うのを、ある程度の年齢にならないと知ることができないというのはもどかしい。だけれど、経験豊かな子供なんていないわけで、いてもそれはそれぞれの環境に応じた上で、周囲とは異なる、ありえないできごとが積み上がっている場合もあることはある。経験上。だから大人は子供の手本になってやらないと。最近、そういう人、あまりいないけどね。

 

でもね。一人じゃないって良いなぁ・・って。僕には家人がいて、もちろん一人じゃないんだけれど、人はやっぱり良くも悪くも干渉し合わないと成り立たないわけで。それが家庭を作り、社会を構成し、国になる。でも一人じゃないってことは、自分以外の生活や考え方だけじゃなくて、幸せや悲しさもある程度は一緒に背負うものなんだろうなと思うとね。色々と。

 

この物語に限らず、吉田秋生氏のコミックはこういうものが多いね。キャラクターをクロスオーバーさせているものもあるし。初めて出会ったのは「BANANA FISH」だった。で、その後日譚を含めて読むとね。「あぁ、トシ取ったもんだな、俺も」と思う。なんかね。素通りしてきた過去の時間に多くの意味があって、それが積み上がって自分ができていることを実感して。もちろん、この歳になると後悔とかはなくて、手元にあるモノだけでやっていきつつ、寄り添う人たちとの干渉を自身の一部分として考えるようになる。というか、ならざるを得ない。「許せる」と言ったら良いのかな。うーん、良い言葉が思い浮かばないけれど、「受け入れる」というとちょっと違う。「迷惑」って言っても良いかな。でも「認める」もなんかアンフェアに感じる。そうやって自分のことも「許せる」ようになる瞬間が来るのかな?と思う。そう、みんなで積み上げたものが間違いでは無かったと「許せる」瞬間が。

 

いつも書いてるけどさ。「善き隣人(過去に何度も書いてきたような意味で)であれ」ってのは自分にも当然向いてるんだなと。だからこそ善き隣人でない人を「許せない」んだろうな。自分も含めて。