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南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

日常生活で思うこと、電子ガジェット、オーディオ、映画、小説を紹介するサイトです。

最強の人類とは(あらゆる現実と皮肉もこめて)

心とか社会とか

このエントリーの前に、いくつかの下書きが既にある。今日アップしようと思っていたのは雫井脩介氏の作品「火の粉」について・・だった。

ところが何となく夜中に目が覚め、色々考えているうちに「淘汰されない最強の人類とはなんだろうか?」と考えた。良いことは浮かばなかったがエントリーに起こしてみた。「各項目は全てを満たしたもの」と考える。胸クソかも知れないが、その点はご容赦願いたい。

健康な肉体と美しい外見である遺伝子を持つ

健康は何事にも替えがたい。永い人生を乗り切るには「健康であること」が一番である。それには身体を鍛えることや、食事、規則正しい(こんな夜中に書いていてナンだが)生活を維持する前の段階として、遺伝子レベルで病気に強く、外見が良くなければならない。

外見については「淘汰」を思いつく。花が美しいのは何故か?逆に言えば、花は美しいから生き残ったとも言える。もちろん周囲の環境に馴染むだけの要因があり、それにそぐわないものは淘汰される。例えば蜂が花粉を運んでくれるのと同時に、蜂は花の受粉を助ける。ポリネーターである。

人間でも同じようなことが言えないだろうか。繁殖して生き続けるのには、健康な肉体と繁殖する対を引き寄せる美しい容貌が必要なのだ。そしてチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・フォレスの「自然選択説」を今の人間社会の環境に合わせて適合できる遺伝子と考えてみるとそうなるのだろうか?と思う。喧嘩して負けるような肉体ではダメなのだ。

www.weblio.jp

人種差別的なことを書くのは、この文においても嫌悪するモノなので書かないが、それも一つの条件だろう。

親の資産と地位の高さ

「金持ちの子供は高い教育を受けられる」今や普通に言われることになった。生まれた段階で格差が付いているのである。自分ではどうしようもないことであるが、これを逆境としてバネにできる人は、現実社会では限りなく少ないと言える。

教育格差の問題はしばしば俎上に上がるが、現実として身近に感じることは、「裕福な家庭に育った子は、知能の高低に関わらず、社会の存在において有利な進学をし、社会適合するための必要な知識と人脈を備えることができる」ということだ。この源になるのはなにか?生まれてから頑張る!・・立派であるし、そう祈りたいし、そういう社会であって欲しい。しかし、現実は違うのではないかと思える。それは自分の会社という小さい単位、または目に見える範疇におけるヒエラルキーを見た上でそう思える。自身の周囲の環境を考えた場合のスタート地点はここではないだろうか。

matome.naver.jp

上記では教育格差について書いたが、受けられる医療や、経験の多さにも影響される度合いが強い。

ある意味、虚言、またはオーバーな言い回しかも知れない。ただ、今日のテーマに沿った上とも思うので書いてみた。大切なのは前半部分である。後半については後述する。

「能力」の高さ

「能力」とは何か?以前にも書いたことだが、「知識」「知恵」「行動」この3つが高いものが「能力の高さ」だと思う。それぞれが関係し合うことが必須でもある。成功を得る鍵として、高い行動力、それをバックアップする様々な知識獲得、そしてその知識を工夫し、またはアレンジし、組み合わせることが知恵である。

前段で「親の資産と地位の高さ」が必要だと書いた。だが充分ではない。その学習経験段階において、高い教育環境下で得る「知識」と「知恵の」の醸成は「行動」する技術も同時に必要である。また、細かいところでは、カネの使い方でもあるが資産の運用方法、仕事や経済の仕組み、宗教の仕組み、政治の仕組み、覚えることはたくさんある。

当然、それにおいて足りない場合は他のことで補完せざるを得ない。それが「人脈」である。足りない部分は他の人に補ってもらうのだ。人脈は簡単には育たない。これにも知識、知恵、それを生かす行動が必要なってくるし、その前段として裕福な家庭の子は有用な人脈を得る機会に恵まれている。

「行動」については、ちょっと脱線するが「1つの行動は100の知識と知恵に勝る」という言葉がある。個人的には逆だ。「100の知識と知恵が一つの行動の正しい根拠を得る」であると思う。もちろん、行動し、失敗することによって得る「知識」と「知恵」は非常に大きいのは認めるし体感としてもある。しかし、そういうものを蓄積していくためには「時間とコストがかかる」のである。現代の社会では、気が付いた時には遅いし、気が付くことも難しい環境に置かれている場合が多い。そう思えるのである。その時間とコストを埋めるものが上に書かれた2つのものだ。これが有意に働くと考える。

自己中心的であり相手を出し抜く強さ

大嫌いなタイプの人間である。が、オーバーに「淘汰」と考えると今の世の中を上手く渡っていけるのは、自分を中心に捉え、自らの利益(様々な意味で)を最大化させるための意志を持っていなければならない。

適切でなかったら申し訳ないのだが、学歴を詐称したり、社会の仕組みを「嘘」や「詭弁」を使って乗り切る人が多いのは誰もが知っていることだろう。その中でそれが露見して法的な罰則を受けたり、社会的な罰を受ける人もいる。正しいことをしていればそもそもそんなことはないだろう?と言う人は多い。しかし正直にやっていたらそこまでの成功?(個人的には競争に勝っただけで成功とは思わない)を得ることは難しい。ましてや、現時点でまだ露見していないケースは多く存在すると思われ、それこそが「現代の社会に適合し、自分のみに有利な条件で相手を出し抜く強さ」を持った人たちであると思う。

もう一度書く。こういう利己的な人間は大嫌いだ。

何度も書くが、そういう人の多くは表面的に他人に優しく、慈善活動に似た慈愛を表面的に見せることに長けている。もちろん内面も伴って成功している人だっている。それは僕も尊敬する人物であるだろうし否定しない。だがそういう人たちでも、そこに至る「知識」と「知恵」と「行動」は持っているだろう。それはどこから得たものか?そこまで考えを伸ばしてみるとどうなるのか?僕も知りたいところである。

不要なものを切り捨てる強さ

こう書くと少し良い感じだが、これにはある種の残虐さが伴う。切り捨てる中には人間や企業、グループなどもあるからだ。不利となったら時期を見計らって切り捨てる。これはある意味、大企業の評価制度にも繋がるものがある。言論統制では無いが、責任の割り当てについて、自身のプランにそぐったものの評価を高くし、有能であってもそのプランに阻害する要因、または自分にとって有用で無い成果をあげられないものを切っていく。企業にとって利益の最大化は目的の一つでもあるので、端的に責められないが、それによって切り捨てられるもの対する非常さが求められる。まあ、そういうタイプの人間はほとんどそれに対する感傷など持たないのだろうが。

これは企業などにおけることだけではない。小さな街のグループにも同様なことがあるし、道行く知らない人々の間にも起こる。言葉を敢えて乱暴に書くと「ズル賢いヤツが勝つ(勝ちやすい)」のだ。

厚顔である

もう言葉のままである。何をしても動じない精神力の強さ。これは遺伝から発生し、経験を積んで培われるものでもある。これは多くを書くことは無いだろう。見本が世の中に溢れている。

もちろんこれを「胆力」という言葉に置き換えてみれば、悪いことばかりではなく、むしろ良い場面に必要な能力でもある。

終わりに

ここまで書いておいて言うのもナンだが、こういう背景や現実にあって、その上で清く正しい道を歩み、成長していく人がいる。こんな人間に頑張って欲しいし、評価する社会であって欲しいし、自分自身もそうでありたいと願う。

映画じゃないが「正義は必ず勝つ!」であって欲しいのだ。残念なことにそんな場面は滅多に見られないし、国会中継などを見ても「あれが国民の代表?」と思える様なシーンを見せられると、間違った方向に突っ走っているように思う。しかし、それは淘汰の自然な流れなのだとも同時に感じる。悲しいことなのだが。

だがせめて。

自分だけはそうであってはならないという自覚なり意志を持って欲しい。周囲との関係を見た上で自分の行動をフィードバックし、「至誠に悖っていないか?」をよく考えるべきだろう。「心と社会とか」のカテゴリーにも色々と書いたが、それは自分の行動の指針でもある。押し付けるつもりは無いが、良き個人であり、良き隣人でありたいと願う。

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