南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

40歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任を持たなくてはならない(リンカーンの名言)

最近、色々な映画を観て、本を読み、ネットでニュースや様々な記事を読んでいて感じることがある。身近な人に訪れた若き死のこともある。自分の人生とはなんだろうな?と。

 

こうやってエントリーを起こす時に、日常のできごとや面白かった映画や本、興味のあるオーディオのことを考え、色々と調べるのだけれど、昔はその情報を探すのが本当に大変だった。そう考えると今のインターネットは便利だなと思う。内容の真偽、有意/無意を判断する「目」は必要だけれど、それも多くの情報を収集し、比較し、そして自分の行動と経験で補っていく。そうやって蓄積されるのが「知識」だ。

逆にその「目」が育っていないと情報に流され、煽動されるだけではなく「自身で考える」ことが疎かになって行くのだろうなと思う。更に言えば、ネットで調べた情報を自分の知識だと勘違いをしてしまうことによって、個人の成長の機会を失うことにもなる。それが間違っていることもある。人を傷付けてしまうことすらある。道具は使いようであるわけで、そういう意味でも自身のコントロールや経験の蓄積を疎かにしてはいけないなと感じる。これには大変な時間を要する。知識を自ら身につけることは多くの情報(ネット、本、映画などなど)に触れることである。

 

そして知識(と経験)が蓄積されてきたら、次ぎは「知恵」である。蓄積されたものをどう工夫し、生かすか?それが「知恵」だと思う。何に役立てるのか?どうやって工夫するのか?結果をどう予想するのか?問題はなにか?他への影響はないか?具体的に言えばそういうことなんだと思う。それには知識と共に「経験」が必要になる。具体的な問題にブチ当たった時、それを解決するために費やした経験、多くの人達と出会い、多くの考え方や行動を目の当たりにすること。ただ単に道を歩くだけで多くの人や環境に触れ、それが経験として自然と積み上がる。良いことも悪いことも含めて「経験」であり、それが「知恵」になる。人生に無駄な時間など少しもないのだ。映画「ストレイト・ストーリー」でも言ってたね。最近観た「マイ・インターン」でも。

 

最後は「行動」。いくら「知識」と「知恵」が身に付いてもそれを生かす「行動」ができなければほとんど意味がない。僕自身が大きく欠けていると思うのはここでもあるわけで、猛省すべきところでもあるのだけれど、ここは視点を変えることも必要な部分でもある。意識を持って行動を起こすことは意外に難しい。人は自分の欲求に従って動くものだ。だからこそ「行動」に意味づけや動機づけが必要なのであり、それを貫く意志とともに、それが可能な「環境」が必要なのだと思う。場合によっては他の人の協力もそうだ。

 

今はあまり聞かなくなったが「TQC」という活動がある。Total Quality Controlである。

www.itmedia.co.jp

そもそもは生産現場における品質管理を目的とされた小集団活動であったのだが、ここで身に付いたことは多くのことに役立ったと今でも感じている。これは自身の行動品質についても同じことが言えると思うからだ。事象に対して要因を掘り下げ、根源にある要因を探る。そしてそれに恒常的な対策のループを作る。所謂PDCAを回すこと。

生産現場はもちろん、意識改革としても有りだと思うのだが、僕自身のそれは「人間が特別な意識をせずに品質を上げる環境造り」のこととも捉えている。

「行動」を支えるのには強い意志と共に、そういった行動を起こす際の障害を未然に取り除く環境造りも必要だと思うからだ。

 

この3つを獲得し、生かすために「道具」は存在する。道具は使い方で能力の差がハッキリと出るものだ。知識と知恵と行動が適切でなければ、道具も適切には使いこなせない。僕は以前のエントリーで、現代が性悪説だと書いた記憶があるのだけれど、今の人間はどうだろうか?良いことのために道具を使いこなせているのだろうか?そう思うことがある。

僕が問いたいのは、そういったことを悪い循環として成している社会のこともある。そしてそれはひとりひとりの行動の集合体なのである。社会が悪いのはそういったひとりひとりの行動の結果であるのだと感じる。決して「誰か」のせいではない。

 

かのリンカーンが「40歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任を持たなくてはならない。」と言っている。人間の行動や人格は顔に現れるものだ。散々言っているし書いていることだが、今更ながらにそう思う。

リンカーンの名言には頷く部分が多いなと思うので、ついでに貼っておく。

iyashitour.com

 

みなさんが、いつまでも正しき良き隣人でありますように。

もちろん僕自身の行動も含め、そう願っている。