南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

声のデカイヤツ(色んな意味で)が会社と社会を腐らせる

最近は、キチンと寝ることと決まった時間に起きることを目標の一つにしている。精神論で「頑張れ」なんて悪いとは言わないが良くもない。ちゃんと論理的に整理することも大事だけれど、日頃のルーチンを見直し、そういう環境を作ることも大切だ。まあ、毎朝は猫にご飯の要求で起こされることの方が多いのだが。(^_^;)

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ちなみに、今は子猫の二人も大きくなって左の三毛猫のルナさんよりも大きい。子猫の楽しみはホンの僅かなのである。

 

さて、どうしてか日本の会社は昔から「声のデカイヤツ」が評価されがちだと感じる。ここで言う「声のデカイヤツは」

  • 押しが強い
  • 自分の考えに対抗する考えや価値観の排除
  • 行動力だけはあるので目に見えやすい
  • 単純に声の音量もデカイので印象に残りやすい

であると思うのだけれど、こういうタイプの人が多いと会社が一部の人間の価値観に振り回され、更にそれが現状の悪しき人事評価制度と噛み合って会社内の風通しが悪くなり、それは情報流通の阻害に繋がる。短期的に見ればそれが「当たる」ことは多いが、長期的にみれば社内の人間関係の悪化、凝り固まった価値観で柔軟性の欠ける組織が出来上がる。だって、「声のデカイヤツ」が評価されて給料も上がって昇進して上に立つからだ。それは過度で偏重な能力主義を根付かせた今の人事評価制度が悪の根源だ。

 

だからどんなに有能でも、「声のデカイヤツ」がのさばる会社は長期的に上手くいかないという実感がある。会社生活30年超えで自分の社内だけではなく、関連会社、取引相手、短期プロジェクト等で繋がりのある数多くのベンチャーなんかを長年見ているとそう感じる。

 

そもそも「有能」とはどういうことか

個人的にはこう思っている。

  • 知識がある(情報収集能力が高い)
  • 知恵がある(創意工夫ができる)
  • 気付きがある(人が考えてもいないことを気付く)
  • 気遣いがある(周囲に対する空気を読むことではなく、どんな相手でも同じ対話レベルに引き上げる能力と同じ)
  • 行動できる(知識と知恵をカタチにできる)

上の二つが揃っていても、残りがが圧倒的に少ない。これは自戒の念も含めてだが。

 

問題は「単に行動力だけのある声のデカイヤツ」がそう考えられている傾向にあること、そしてそれを高評価する人事評価制度である。「数値で評価する」のはまだ分かる。結果があるからだ。ただ、そこだけ一面的に見ていてはダメだ。上記のような「有能な人」はとても少ない上に、知識と行動があるのに他の部分が無いことが多い。そしてこれが「声のデカイヤツ」に繋がるから始末が悪い。

 

本来であればこういうことはチームで補完し合うことで、「有能な組織」が出来上がる。「声のデカイヤツ」と今の人事評価制度はそれすら阻害する。有能な個人が少ないのなら有能な組織を作れば良いのに、硬直した人事制度と頭の柔軟性に欠けた「声のデカイヤツ」はそれができない。そして本来有能だった人は組織で浮き、去るだけなら良いのだが今の経済状況を見ればそういう訳にもいかず、結局健康を害することにも繋がる。チームなら生きる、せっかくの人材を潰すのだ。

 

というかね。個人的にはだけど、例えば有能だとしても「声のデカイヤツ(物理的に)」が側にいると五月蠅いんだよ。80dB超えとかで話しをするんだぜ?地下鉄で窓を開けた状態と同じ。だからそもそも集中して仕事ができないし、ストレスだけが闇雲に積み上がっていくんだが。しかもそれが礼賛されてるから始末が悪いし、最近は公共の場でもこういう輩がとても多い。そういう輩は得てして気付きが無いので更に始末が悪い。

 

最近はメンタルを壊す人が多い。それも社会全体的な構造の問題もひとつだが、こういうことも原因なんだよな・・と思う朝であった。