南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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小説『犯人に告ぐ』と犯罪心理と現代の残念さ

あっという間に金曜日。今は病気休暇で自宅にいるのだが、家のことで何かと忙しいせいもあるのだろうか。 それだけやることは今までもたくさんあって、それに時間を割くことができなかったのだろうな。

 

僕はミステリー小説を読むのが好きである。時間の合間に読むのでそれほど大量には読めないのだが、小説には自分の想像力をかきたてられること、それによって様々な背景や情景を考察したり、自身の興奮なり快楽なり、場合によっては実現不可能な行動の追従や認知ができたりする。

まずは「犯人に告ぐ」の感想を簡単に

先日、雫井脩介氏の「犯人に告ぐ」を読んだ。ちなみに、彼の作品は割と好きで、いくつか読了しているが、この「犯人に告ぐ」は2回目になる。面白い小説は何度も読みたくなるものだし、1回目よりも2回目、3回目と内容の意味や書く技術などが徐々に深まっていくと思う。

 

さて、この「犯罪に告ぐ」だけれども、簡単に要約すると下記だろうか。

子供を対象とした連続殺人。過去に誘拐殺人を担当し、そのミスにより結果的に子供が殺害されると言う最悪の事態を招いた刑事の心の傷。

そして新たに発生した連続殺人事件の担当として舞い戻った刑事は、「現役の捜査官がテレビに出演し、犯人に呼びかける」という奇抜とも思える 「劇場型捜査」の指揮を執ることになる。

「劇場型犯罪」はともかく「劇場型捜査」は耳にしたことのない捜査方法だ。実際にやったらどうか?はともかく、物語の中では様々な思惑が動きつつも、それに呼応した犯人が自身に繋がる証拠を露呈する。それがそもそもの目的であるわけだが、結果的に犯人逮捕への糸口となるわけだ。

そういう意味でこの「前例の無い、常軌を逸脱した捜査方法」とそれに対応する主人公の刑事の心理描写がこの小説の面白さであると思う。露呈した証拠は偶発で曖昧で微弱なものだが、それを呼び出すことに成功したのもこの「劇場型捜査」のたまものなのだ。

更に、主人公のキャラクター設定が良い。今まで出てきた刑事らしくない外見。過去のミスとそれに繋がる現在の担当事件への投影。そしてそれを自らの子供と家族との関係などだ。細かいところが繋がっている。

自分がミスを犯した、最初の犯人の結末は・・もなかなかのものだと思う。まあ、この辺の心理は実際には分からないのだけれど、こうあって欲しいという願いに合致している。法的な罰は回避できても、人間としての罰は受ける。むしろこの方が残酷でもあろうが、その残酷さに見合った所業でもあったわけだ。

 

この小説、映画化もされているんだけど、あまり評判が良くないので観ないようにしている。というか、面白かった小説が映画化して良くなったのはあまり多く無いように思う。時間の制約もあるし、そもそも小説ではその世界感を自分で創造する。その創造した世界と、映画で見せられる世界との乖離があればやはり残念な気持ちが勝ることも多いと思う。

 

雫井脩介氏の作品はどれも割と好きだ。とりわけこの「犯人に告ぐ」と「火の粉」が好きかな。「多くを語らず魅せる妙」みたいなものを感じるからだ。

犯罪とは?

ここでちょっと考える。小説としての「劇場型捜査」は確かに面白いのだが、興味は「子供を狙った連続殺人の犯罪心理」に移る。

そもそも犯罪とは何か?

端的に言えば「法律に違反した行為」であるわけだが、こういうサイトがある。

kasabake.jugem.jp

これを読むと、刑事罰としての法学的な側面、心理学的側面にも触れている。心理学的側面では刑事罰意外に道徳的な逸脱についても「犯罪」であると考えられる。であれば今の日本なんて犯罪者だらけにもなってしまうのだが、個人的には

ある行為によって他者の利益や日常を毀損すること

と捉えている。つまり、僕的には刑法のみに準じるわけじゃない。むしろ心理学的側面に立った認識に近いわけだ。まあこれが僕の普段の大きなストレスにもなるのだが。

連続犯罪における心理

では、なぜ連続するのか?この連続殺人における対象が「子供」であるということは何を意味するのか?に興味が沸く。

自分にとって煩わしさを感じる子供の存在を、「殺人」という形で否定した犯人というのが最も多いのだろうか。単純に子供よりも力で勝るから?それとも、よく言われる成長期における何かしらの心理的作用というのもあるのかも知れない。それについては以下のサイトが興味深い。

hotrussianbabe.com

ここでは「情動」に流され、刑法や道徳を逸脱することについて「生理的興奮」について書かれている。また「情動」は多くの経験によってそのフィードバックが行われ、それが人格形成の一部を担っていることもある。

更にその人格形成において幼児・子供期における体験や、それにって脳におけるパターン化についても考察している。

僕個人がいつも言っている「大人は子供の手本になる」は、ここにおける親の機能不全というよりは、社会全体の機能不全によるものだと言う意見だ。昔は現代のように他者に対する感情の希薄さという意味で、自分を叱ってくれるのは親だけでは無かったし、単に罰を与えることでそれを「教育」とするのではなく、自らが規範となってその姿を子供に見せることが大切だと感じているからだ。

だが残念なのは、こういうことは「治療(というのも言い過ぎかと思うが)できる」ものでも無いと同時に思っている。「そういう人」として育ってしまった人に対して「寛容になるのか」「自らの利益を守るか」の二択しかないと言うのが個人的な「残念賞」なのである。

この辺の心理的な部分を哲学的に咀嚼したければ、カント、マルクス、フロイト、ラカン辺りの学者の文献を読むと参考になるかも知れない。

現代の残念さ

総じて考えると、この現代の残念さは周囲の環境として、教育や社会、もちろんそれの基盤となる経済と宗教に帰結すると僕が思うことだ。そう、今は「残念な社会」なんだと思う。

こういった「犯罪」や、昔を基準としてはいるが「道徳からの逸脱」が起きる温床としての教育や社会、単純に生きることでさえ困難な経済の状況。そしてそれが子供達の心理育成に影響を与え、「現代」という社会ができあがっていることだ。

ただ、経済においては「餅は餅屋」に任せるとしても、「餅屋」を決めるのは個々人であることを忘れてはいけないと思う。端的に言えば「選挙へ行くこと」と「選挙で誰に投票するかの判断力」である。ある特定の活動であるデモとか、なんとか団体とかってのも影響は少なくないのだろうが、まずは「個人」は「自分という人間を総合的に表すこと」であるのも忘れてもいけないのだろう。

終わりに

まあ、「住みにくい世の中になったね」とか「世知辛い世の中だね」はいつもの口癖であるが、だったら僕自身ももっと行動しなきゃね・・と思う。才能のある人というのは、多くの知識と経験を持ち、それをよく考察し、そして行動できる人のことを言うのだと思う。僕もそうなりたいもんだ・・っていうか努力が足りんのかな。