南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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2001年宇宙の旅(今更ながら)

たぶん、最初に観たのは中学生の頃だったと思う。「SFの金字塔」「比類無き映像美」みたいな宣伝文句だった気がする。その後、成人になってからテレビでもう一度観たと思う。でも、ほとんど記憶に残っていない。とにかく「意味がまったく分からなかった」から。類人猿が骨を道具として使う部分、HALが暴走する・・これくらいしか覚えていない。正直、何が良いのか分からなくて、「これさえ『素晴らしい』と言っていれば映画通」みたいな認識しかなかった。

 

で、今回、フと思い出してもう一度観たくて購入してみた。

確か、セリフとかほとんど無かったし、とにかくストーリーが追えないことは分かっていたので、先に小説を買って一日かけて読んだ。ここでやっと納得ができた。

 

さて、映画である。

冒頭の「ツァラトゥストラはかく語り」。これはもう誰もが聞き覚えのある曲であると思うし、ある程度映画を知っている人なら「2001年宇宙の旅」で使われたと知っていることだろう。正直、このオープニングには今でも圧倒される。

で、見返してみたのだが、こうやって観るとちゃんと観た記憶があるのは分かる。小説を読んだので全体の意味は分かるし、小説とは異なっている部分も分かる。しかし、現代のSF映画から観たらとにかく意味不明なのは変わらないし、映像が劣ることは致し方ない部分であろう。

 

ただ、驚くべきことはこのストーリーとこの各種機器類や、宇宙旅行の方法、それに関わる様々な問題などが綿密に描かれていることにある。本作が公開されたのは1968年。調べてみると、当時のソビエトがルナ計画で月面探査をしたのが1959年、アメリカのアポロ計画が1951年から開始されたとは言え、月面着陸は1969年のことである。この当時にこれだけのリアリティを持った「宇宙旅行」を映像化したことは驚嘆に値する。

正直なところ、各種映像技術や内容は今となっては珍しくなく、現時点でこの映画を観ても大きな感動は得られないだろう。そういう意味では映画史全体として考えた場合の先駆者的な位置付けにあると考える。であれば、映画好きとしては「必ず観ておく一作」ではあると思うが、現代映画と比べて素晴らしい映画であるとは思いがたい。これが位置付け的に少し微妙な気はしてしまう。少なくとも、新たに映画を趣味にしようとしている人に「まずはこれを観ておけ」とは言わないだろう。それを考えれば1977年に公開された「STAR WARS」はメカ的な古さを除けば今でも「まずはこれを観ておけ」と言える作品に仕上がっていると思う。「エイリアン(1979年)」も同様だ。時代背景を考えれば素晴らしいが、現時点で考えれば単純に映画として面白いとは思わない。

 

もう一つ。この作品には続きの物語である「2010年宇宙の旅」がある。これは、あまりにセリフが少なくて理解困難であった「2001年宇宙の旅」の背景を説明してくれる意味で観る価値があるだろう。芸術品のような味わいを持つ「2001年宇宙の旅」に比べれば、多少映画的であり、分かり易い。もちろん僕のように小説を読んでいれば意味は分かるが、映像でのストーリーの補完は自身が描く想像力を遙かに超える。そういう意味では最初に映画を観て、次ぎに小説を読み、再度映画を観る・・の方が順番的には良いのかも知れない。

 

あの当時「分からなかったもの」は分かった。それを踏まえて今の認識も構築できたし観て良かったと思う。素晴らしい映画であることは間違いない。

脱線するが、映画のSF的な発想であれば手塚治虫氏の「火の鳥」をイメージした。特に宇宙生命体の部分などの解釈に類似したものを感じる。手塚作品については「火の鳥」に及ばず、新しい発想の宝庫であることに異論は無いし、「火の鳥」の「黎明編」が書かれたのは1959年のことである。最終的にライフワークとして完成をみたのが「太陽編」の1988年。途中の時間的幅を考えれば多くの作品を参考にしているかも知れないが、これだけ観ても手塚治虫氏の才能の偉大さに異論を唱える人はいないだろう。個人的には、他の作品も(あまりにたくさんあるが)是非読んでみて欲しいと思う。

 

さて、この年齢になってやっと「2001年宇宙の旅」を再び観ることになって、心の中に一つの区切りみたいなものが付いた気がする。「STAR WARS」も新たなスタートを切ったことだし、今後もこういった歴史に残るような作品が出てくることを期待したいし、とても楽しみにしている。きっと「長生きして良かった!」と思えることだろう。