南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

猫とガジェットと映画と小説の毎日です。

書くことを腐らせない

病気休暇になっても家事はそれなりにあるわけで。最近だと自宅から会社に接続して普通に仕事も出来るって言えばできる。まあ、「しっかりと休め」というお達しがきているので、その辺はあまり気にしないようにはしているが。ということで、ただいま家事の途中だが昼休憩中。

 

さて、ブログを再開してもうすぐ半年になる。

どうして再開したかって言うと、端的に言えば、

 

『書くことを腐らせないため』

 

である。文章を書く(というかキーボードを叩くわけだけれど)ことは、ある日思い立ってすぐにポンと書けるというわけじゃない。よく英会話ができる人が、日頃から英語を使ってないとパッと言葉が出てこないと言うがあれと同じだと思う。日常的に書くことに慣れていないと、いざ、色々な文章を書こうと思っても文章の繋がりが悪かったり、言葉が間違っていたりもする。それは意志の疎通の齟齬に繋がる。仕事上、メールは毎日かなりの量をやりとりするわけだけれども、それとはまた違った、まとまった文章を書く際にはやはり日頃からの鍛錬に似た習慣が必要なのだと思う。以前はこういったブログの文章だけではなく、仕事上で感じたこと、日常での自分の思考や経験の整理のために毎日5千文字くらいの文章を書いていた。

 

書くことは喋ることとも違うが、日頃からこうやって多くの文章を書いていると頭が整理され、会話の流れをスムーズに運ぶこともできる。例えば講演で壇上に立った時に言葉に詰まることがある。あれも単に練習不足であるわけだけれど、話す内容の理解、それを引き出しから適切な言葉で発声することによって、より、相手に伝わりやすい意思疎通が可能になる。日常的に書くことによってその引き出しを多くし、適切なインデックス化もできる。

 

もちろん以前から言っているように、本をたくさん読むことも同時に大切だと思う。じゃあ、本を読まないのはバカなのか?なんて言葉も目にすることは多いが、そういう意味じゃない。多くの文章に触れること、多くの意味に触れること、多くの体験(擬似だとしても)を積むことは年齢を重ねるごとに経験となって積み上がっていくことを実感できる。僕がこの年齢でそう思うのだから、60代になったら今よりもっと、70代になったら更に積み上げたものが高くなる。それと同じだ。

 

病気になってからはどうしても自分の心に閉じこもりがちだったのだが、書くことで脳が活性化・・というか、惚けている時間が短くなる。何を書こうかと自分の時間を振り返ることもある。そうやってコミュニケーションの基礎となる技術を磨き、いつでもとりだせる引き出しを多くしていく。だから書く。

 

まあ、今書いているのはブログなわけで、そういう意義から考えてみれば自分が使ってみた道具に感じた善し悪しを他者に伝えたり、面白い映画を見付けたら紹介してみたり、それを読んだ人が共感したり否定したりしながらそれぞれの思考を巡らしてくれたらそれはそれで楽しいと思う。

 

さて、昼休憩終わり。主夫業再開するかな。たわいもない話しだがご勘弁を。