南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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挑戦し、社会にステキな「絵」を描ける人になって欲しい

どうにも体調が戻らなくて、風邪をひいているわけでもなく、単にモチベーションの低下があらゆることに対する活動意識を阻害している。つくづく身体は心の入れ物だと認識する毎日である。

 
さて、以下の記事を読んだ。耳の痛い話である。

zasshi.news.yahoo.co.jp

例に漏れず、僕の勤務する会社も「まずは数字」ありきである。成果とは数字の大小であり、そこには人間が積み上げる過程を示していない。人が歯車だと認識できる一端であろう。「オレはそんなものには飲み込まれない!」と豪語してみても、例えば結果ひとつでさえ具体的な数字が成果となり給与が支払われ、それが生活レベルを決め、同時に人生をも左右してしまう。実に無体なことでもある。
 
もちろん売り上げなり目標設定が不必要だとは思っていない。だが、そこにはまず描く「絵」が必要である。ウチの会社でも年度当初計画、半期の修正計画、そして年度末の着地予測とある。もちろん、実際に実施する業務によって当初計画を立てるのだが、増えた分は修正計画に新たに積んで・・ということにはまずならない。基本的に「削減」の命が下る。その方が「責任者の見栄えが良いから」である。逆に言えば、言葉は悪いが最初から分からないことをでっち上げておいて、予算が下がることを織り込んでおり、着地時には無理矢理使い切る・・なんてことがまかり通っているのである。普通の人から見たら至極バカバカしい。しかし、これは事実であり、同様に今回の施策でもこれと似通った構造になっているのではないだろうかと想像する。
 
もちろん予算の確保は重大なことである。しかし肝心の「絵」が無ければ結局無駄金を使うことになるのではないか?との疑念はある。「絵」を描くには確かに時間がかかるが、それとなる根拠をある程度でも提示できない以上、何も無いと言われても仕方がないだろう。
 
欧米などでは新しい「絵」を実現していく小さい集団が成長することが多い。それがやがて大きな社会の流れになる。日本でそれが育ちにくいのは日本的同調圧力や、他社や関連企業や団体などのすり合わせにおいて、前例や過去の慣習などに囚われ、新しい「絵」に対して排他的であるが故ではないかと思う。それは多段的組織構造における責任の所在の曖昧さによって、どんなに優れたものでも終わってみれば箸にも棒にもかからないようなものが出来あがることが多いからだ。所謂、競争力の無い無難なプロダクトだ。
 
例えば。ウチの会社で一風変わった前例の無いような試みを提案してみよう。保守的とまでは言わないが多くの幹部は数値的根拠を求める。細かい予算の提示、予定スケジュールはどうなっているか?どの程度の採算が見込めるか?である。そして最終的にその責任は誰が取るのか?この時点で新しいものは微妙に「危ない橋」と認識され、排除される。せっかくステキな「絵」があっても、具体的な数値が明確にできないからである。こうして大企業は安定的でありはしても革新的ではなくなる。僕の会社を見ているとそれを実感として感じることができる。他でも似たようなものだろう。
これを打破するにはある程度力の持った、強靭なリーダーが必要になる。しかし、保身と同調を身上とした大企業にはなかなかこういうリーダーはいないものだ。結局、欧米でヒットの予感を嗅ぎ取り、似たようななものが出来上がるといったルーチンに陥ることになる。
 
僕が新人の頃、尊敬する先輩が退職するときに言った言葉が今でも耳に残っている。「私は『大過なく退職を迎え』とは言わない。それは挑戦して来なかったという証でもある。『危険な橋も渡ってヒヤヒヤしたりもあったが、終わってみれば良い会社人生だった』となら言える。」と。
 
若き(別に若くなくても良いんだけど)才能が海外に出て、自分の描いた「絵」を実現するための方法としてクラウドファンディングや、ベンチャー支援などの仕組みがある。これらを上手く利用し、自らの「絵」を完成させて欲しいと思う。まあ、僕にそれを言う資格があるかどうか?というのが痛いところではあるが。