南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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「気づき」とか言う厄介で面倒だけど、超有能なチカラ

子供の頃ってこんなに暑かったかなぁ・・と、年月と場所(生まれも育ちも静岡である)を考慮しないで思ったりする今日この頃である。アチーよ、マジで。( ̄△ ̄;)

僕は「気づき」と言うのは一朝一夕に身に付かないものであり、その上でとても大切なことであると思っている。普通に自分のことだけを考えていたのでは絶対に身に付かない。「気づき」がなければその先にある未来への対処、他者への思い遣りとしての想像力も働くことはない。とても大切なチカラである。もちろん仕事にも役に立つチカラだ。問題提起するにもまずは「気づき」が必要だからだ。

では、「気づき」というチカラはどうやって身に付くものだろうかと考えた。

  • 親や周囲の大人たちの姿を見て覚える
  • 多くの問題に遭遇し、その解決にあたって周囲を観察する洞察力を身に付ける

ぱっと思いつくのはこのくらいだろうか。他にも考えることはあるが、まずはこのふたつ。

今の若者は・・なんて言葉は大昔から繰り返されているセリフのようだが、実際によく耳にすることだ。若者は絶対的に経験が少ない。だからこそ学ぶことが大切なのだけれど、今の大人は子供の手本になる人は少なく(ある意味自戒も含め)、外に出てもゲームやスマホに夢中で他者を見ることすらしない。本も読まない。個人的に読書は下手な啓発本よりも、ミステリーでも良いから想像上の他者の経験を追体験する意味でもとても大切なことだと思う。自分の知らない経験を仮想的に積むのだ。良書であればコミックだって良いと思う。

例えば。 極端な例だと分かりつつ、赤信号を車が来ないからといって渡ったとしよう。自己責任?でもそれを子供が見ていたら、ひょっとしたら「あぁ、赤色でも渡って良いのか」と思うかも知れない。それが結果的に事故に繋がることになるかも知れない。「たられば」は愚かだとも思うが、そういった細かい生活動作が手本となるものだと思う。

ちょっと脱線するしいつもの話題だが、電車の「優先席」を知らない人もそこそこいるらしい。老婆や妊婦を目の前にし、彼女たちの苦労を気づき、想像する能力があり、そこに思い遣りを持った人がいれば自ずと席を譲るのだろうしそもそも優先席なんて無くても良い。JRに問題提起しても「みなさまの思い遣りによって成り立っているものですから」なんて言われても、そもそもそんな気づきも意識も未成熟で、自分だけが良ければ良いという人が多いこの世の中で通用するわけがないのだ。JRももっと勉強と具体的な努力をしろと思う。もちろん、「他者には他者の都合がある」ことは忘れてはいけないが。

閑話休題

また、問題解決に対する思考も「気づき」を与える良い機会だ。

「若いウチの苦労は買ってでもしろ」なんて言葉はあまりに大雑把で、それだけは意味が無いと思う。問題解決によって気づきや論理的思考、クオリティコントロール手法の習得や新たな創造力の獲得にも繋がる。まだ失敗を寛容してもらえる世代に、そういう経験をたくさん重ねられることは将来にとってとても有用なことだと考える。 もちろんこれはとても面倒だし時間がかかる。イヤな思いもたくさんするだろう。だがこれは無駄にはならない。人生、たったの52年だけれども、そんな僕でも経験則としてそう実感する。

基本的にはこのくらいだろうか。それ以外にも

  • 自分には関係のない事柄に興味を示す姿勢を育てる
  • 教育として学び、体験する

なんてのも考えたのだが、そもそも覚える気がないものに覚えられるワケがないのだ。それはもっと根本的な人格形成期に親や周囲の大人が見せ、与えるものだろう。

さて、これがどうして「超有能」なのか。 まずは社会生活を考えてみれば良い。短期的に「正直者はバカをみる」的なこともあるだろう。だが、長期的に考えて協調的で優しい社会は自らを助けるものである。端的に言えば、「他人だろうがなんだろうがいらんテンションは作るもんじゃない」ってことと、「情けは人のためならず」なのである。昔の人は良いことを言ったもんだ。僕もそうありたいと思う。 そしてそういうことは、必ず自分に跳ね返ってくる。因果応報なのだ。それがいつのこと、どんなタイミングなのか分からないが。

僕がいつも思うのは「人間同士の相利共生な社会」である。みんなが穏やかで幸せであれば、ニュータイプなんていなくてももっと穏やかに分かりあえる毎日を暮らせるんじゃないかと思う。

「気づき」は勝手には身につかない。勉強しても簡単ではない。だから厄介で面倒なんだと感じる。でも自分を幸せにできるチカラだと信じている。