南瓜の馬車 〜いいわけでも許して〜

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杖を使って2年が過ぎた

そう言えば、杖を使って今月が2年目であることを思い出した。杖を使うことで起きた生活や心の変化についてちょっと書いてみたい。

背景

どうして杖が必要になったか?実は僕は小さい頃から両足膝の関節が外れたようになる。その状態で医師の診断を受けたことが無いので事実は分からないのだけれど、実際には外れたような感覚になる。その状態では痛みで歩くことはままならず、当然力も入らない。見た目として足は変な方向に曲がったりはしていないが、感覚的には「外れている」である。
幼い頃は自分で足に力を込めればガクンと元に戻ったのが、この年齢になると自分では元に戻すことができない。従って、誰かに踵を持って引っ張って貰うしかない。これがちょっと形容しがたい痛みである。
原因は分からない。MRI検査も受けてみたが異常は無いのだそうだ。そもそも僕はそれは「誰にでもなること」だと30歳近辺まで思っていた。ところが誰に訊いてみても同様の症状に悩まされている人はいない。40代中盤までは普通の生活では痛みが無かったのが、徐々に痛みは増し、2年前には歩くのに支障を来すほどになっていた。現在に至るわけである。

実際にどんなことが不便なのか

まずは片手が常に空いていないことが挙げられる。電車に乗っても踏ん張ることはできないので吊革を持てる位置に陣取ろうとするが、そもそも五十肩らしくて吊革は辛い。ではポールをと思うのだけれど、そうそう都合良くポールは立っていない。同様に傘を差すと両手が塞がる。転びそうになっても手が着けないと言うなんとなく不安な気持ちが広がる。

次が身体のコリ。杖をついている方の上半身が酷いコリに苛まれる。できる限り力を抜くように心がけていても、自身の体重を支えること、膝の痛みを避けるように補助に使う以上どうしても力が入る。一年もすれば慣れるだろう・・と思っていたが、これは甘かった。冬には肩や肩胛骨付近に貼り付けるタイプの安いカイロを使って温めたり湿布を貼ったりしたが、僕は肌がとても弱いのである。すぐにかぶれてボロボロになり、今度はその痛みや掻痒感と戦うことになる。

膝が曲がりにくいので、飛行機に乗った際には本当なら一番前に陣取りたい。ところが、その場所は非常口に近く、救助の際に支障が出る。実際に僕は痛いことを我慢すれば走ることはできる。でもまあ、それはあくまで他人には分かり得ない状況であるわけで、やっぱりその席は問題があるのだろう。一度、ある航空会社のCAに「次回からこの席を予約するのはご遠慮して下さい。」とキツイ調子で言われたことがある。まあ、もっともだと思うので、以後は前の空いている席は取らないようにしている。

イベントなどに行くと杖を蹴られてよろめく。僕は仕事柄、IT系のイベントに行くことが多い。会場が混雑していることが多いのだけれど、来場者のほとんどは展示物を見ることに一生懸命で下など見ていない。結果、僕の杖を蹴飛ばすことになる。もちろん、誰が悪いと言うわけではなく、単純に「不便」だと感じているだけだが。

端的に言えば、「外に出ることがひどく億劫になった」である。健康とは本当にありがたいことだし、何よりも優先されるものだと思う。

杖を使ってみて感じた世の中の弱者に対する理不尽さ

「思いやりのある日本人」なんて言葉は嘘っぱちだと気がついた。電車の優先席に行っても席を譲ろうとする人はわずか。週に1〜2人というところだろう。電車は一週間に単純に考えても12回以上、時間にして1度に1時間近く乗ることになる。それでこの数字は明らかに少ないだろう。優先席はあくまで「優先」であって「専用」ではない。一部の路線では専用席もあるようだけれど、空いていれば座れば良いと思うし外見が健康に見えていてもそうでは無い人はたくさんいる。仕事で疲れて立つこともままならない人もいるだろう。それでも優先席で眠りこけている人、一心にゲームをするサラリーマンなどを見て理不尽な思いに囚われる。

エレベータでもそうだ。駅に設置してあるエレベータは別に健康に支障がある人の利用専用ではない。でも、スタスタとスマホ片手に乗り込み、降りてもそのままスマホに視線を落としたまま足早に出て行く人がいる中で、妊婦、ベビーカー、車椅子の方、杖などをついている人達が順番を待たされる。元気な人達は到着と同時に割れ先にと外に出て行く。杖をついている僕を押しのけて。開ボタンを押して待ってくれる人は極々少数だ。

こういうことを書き始めると枚挙にいとまが無い。自身を守るための言葉として「人には人の事情がある」ということを常に念頭に置いてはいるが、それでもその理不尽な気分は拭いがたく、テレビや雑誌などで小綺麗な文字列を見ると不快を通り超して吐き気すらする。できないくせに体裁だけを繕うとする事実。いい大人であれば子供だっているだろう。そういう人が子供を育てているわけである。世の中、良くなる道理がない。

自身の気持ちの変化

何度も書くが「人には人の都合がある」である。これはあくまで自分が負の感情に囚われないための呪いであるし、事実だろう。それでもなお、この2年間は世間に触れている間ずっと抑えきれない厭世観に囚われている。もし自分に半径5mほどを一掃する自爆スイッチがあったら、押すことをどのくらい我慢できるのだろうか。あり得ない、でき得ない妄想が広がる。同時に、自分はなんて狭量な人間なんだと言う激しい自己嫌悪。これが二重三重の波となって襲いかかる。何というか・・常に世間を呪いつつ、同時に自分をも呪っていると感じる。これがなかなかキツイ。

逆に、たまに温かい手を差しのばして貰った時の感謝の気持ちや有り難い気持ち、心も温かくなり幸せな気分になる。不具合があるが故の反動と分かりつつ他人の親切にはホロリとなりそうになる。逆の立場として、証明はできないが今まで自分から席を譲ってきた身からすると、それはそれなりに意義のあったことだなと実感できる瞬間でもある。

面白い発見

誰が思いやりがあるのか外見を見ただけで判断できるようになってきた。優先席で席を譲ってくれる人、そうで無い人には明確な外見の違いがある。もちろん100%とは言わないが。
まずは「身なりが清潔」である。スーツである必要はない。何というか、清潔感のある人が圧倒的に多い。勝手な推測だけれど、こういう人はそもそも様々な余裕があるのだろう。余裕があるからこそ、他人に優しくできるのでは無いだろうか。

表情に品性がある。不細工かそうでないかとかではなく、何とも例えようのないことで恐縮だけれどもそう感じるのである。そう感じる人は多少席が離れていても声を掛けてくれる。以前から人格は顔に出ると思っているけれど、この2年間、それを強く実感した。

それでもなお、ある程度の分類ができる。席を譲ってくれる人には年配のサラリーマンが多いこと(ただ、マイルールとして年上に見える方の好意は恐縮だけれど辞退することにしている)、女性はほぼ譲ってくれないこと、欧米系(ちょっとまとめ方がよく無いけれど)の方はほぼ100%譲ってくれるなど。

ちなみに、上記は優先席の行動で表現したけれど、これは至るところで同様である。

なんとなくまとめてみると

杖をついていて、これがこんなに自分の心に変化を起こすことだとは思わなかった。正直に言えば、悪いことの方が遙かに多いのだけれど、だからこそ自分自身を他者の視点から見つめることはやっぱり大事なんだと思う。弱者に優しいことは生き物としての本能からは逆行しているとも同時に思うのだけれども、それでもなお思いやりに溢れた世界は素晴らしいのだろうな・・そう感ぜずにはいられない。自分だってその汚い人間なんだから。